映画『ドライブ・マイ・カー』 | 牧内直哉の「フリートークは人生の切り売り」Part2

映画『ドライブ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』

(上映中~:TOHOシネマズファボーレ富山、J-MAXシアターとやま)

公式サイト:http://dmc.bitters.co.jp/

 

舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。

はずでしたが、ある日、悠介は妻の浮気現場を目撃してしまい、

しかし、そのことを妻に問いただすことなく夫婦生活を続けていました。

そして、音が悠介に「今夜話がある」と言った晩のこと、

その話が何か分からないまま、音は急死してしまいました。

その2年後をメインに物語は描かれています。

 

村上春樹さんの同名短編小説の映画化です。

カンヌ国際映画祭で脚本賞他、計4部門で受賞しました。

印象的にもカンヌが好きそうな心地良い辛気臭さのある映画です。

それと、やはり脚本というか、台詞に文学の香りがして、

あいかわらずの原作未読で、それを映画館の帰りに買うでもない、

そんな私が言ってはなんですが、この映画の空気感は私好みです。

 

(※例によって、以下、ネタバレはほぼ気にせずに書いてます)

家福夫妻はセックスしながら脚本を推敲してまして、

そんなシーンが序盤で何度もありながらPG12で収まってました。

悠介が妻の浮気を目撃するシーン。部屋の鏡に悶える妻が映っています。

ハッキリとはしませんが、妻の音は夫には気づいていなかったようです。

「今夜の話」はこれについてのことなのか、だとすれば・・・。

 

そして、浮気相手の男も誰だかハッキリとは映っていませんでした。

私がちゃんと見てなかっただけ?。いや、頭しか映ってなかった・・・はず。

その前に、音が脚本を書いたドラマに出演していた、

若手俳優の高槻が紹介されていて、彼のような気もしますが、

とにかく、いろいろハッキリしないまま、2年が過ぎていたのでした。

 

妻の浮気を一切問いたださなかったことも、

妻の死から2年程度では喪失感は癒えないことも、

悠介はいかにも西島秀俊さんが演じてこそと感じられる役です。

実はこの夫婦には過去に幼い娘を失ったという悲しみがあり、

そもそもが喪失感の中で夫婦生活を続けていたんですね。

 

しかし、その後も仕事は順調のようで、大物として扱われる悠介は、

演劇祭でチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演出を依頼され、

愛車のサーブで広島に行きます。新幹線ではなく、愛車でやってきた。

が、演劇祭主催者の意向で運転手があてがわれることになりました。

 

これについては、悠介はしつこく拒絶し続けました。

というのも、彼は「演出の準備をする」みたいに言っていましたが、

車内で妻が台詞を吹き込んだカセットテープを聞いて稽古してたんです。

妻の生前から続けていたことです。妻の死後も続けていました。

つまり、この車内での時間は稽古よりも大事な理由があるわけです。

 

しかし、主催者側の理屈もあります。結局、悠介は受け入れました。

寡黙な女性運転手の渡利みさき。彼女と悠介のやりとりが軸の一つです。

渡利は北海道の生まれですが、なぜ今は広島にいるのか、

運転が上手いのはなぜか、それは中盤以降に明らかにされます。

最初は距離のあった悠介と渡利ですが、徐々に近くなっていきました。

渡利の年齢が23歳だったというのもポイントになっています。

 

そもそもタイトルが『ドライブ・マイ・カー』で運転しているのは渡利だし、

悠介が大事な気付きを得たのは、彼女の働きと言葉によるものだし、

そこで悠介が口にした「正しく傷つくべきだった」は本作の本質の一つだし、

ラストシーンに登場するのは彼女だけ(あれもハッキリしない・・・)なので、

この二人のやりとりこそが物語のメイン・・・でもないんですよ。

なんせ、上映時間179分ですから、いろいろ描かれているわけです。

渡利役の三浦透子さん、控えめに、しかし、存在感のある演技です。

 

もう一つの軸は、当然のことながら演劇祭の『ワーニャ伯父さん』です。

この公演のオーデイションに高槻がエントリーしていました。

そして、彼は本人の希望しなかったワーニャ役に選ばれます。

悠介は高槻が妻の浮気相手だと確信した上で選んだのか、

それとも、高槻の俳優としての才能を評価したのか・・・。

中盤で、悠介が高槻を選んだ理由というか、

高槻に対して俳優としての評価を語るシーンがあります。

また、もともとは俳優としての悠介の当たり役でもあったワーニャですが、

もう今は演じることができない理由を語るシーンは興味深かったです。

 

一方、サーブ車内での高槻の独白。ここは力の入ったシーンでした。

彼が語ったその脚本のドラマを観てみたい(映画ではなくドラマ)。

そして、他人を解るためには、自分を解ろうとしなくては・・・というのは、

本当にそうだと思いました。正直、自分のことも解らないものです。

で、他人を解るため、自分を解るため、文学や演劇、映画などは、

教科書代わりになる芸術だと、これは以前から思ったりしてます。

高槻役は岡田将生さん。かなりピッタリはまる役でした。

 

チェーホフの『ワーニャ伯父さん』と本作の物語はリンクしています。

チェーホフの「チェ」の字も知らない人でも理解できるとは思いますが、

その辺のところは私には分かりません。

というのも、私は大学の専攻が演劇(演出)だったので、

あの時、もっと勉強しておくんだったと悔やみつつ、

チェーホフの「チェ」の字程度、作品も『ワー』程度には分かりますから。

 

悠介が演出する演劇で興味深かったのは、

諸外国の俳優たちが、それぞれ自国語で演じていくものだということ。

数か国語が同じ舞台で飛び交うことになります。

なので、稽古は読み合わせをこれでもか!というくらいに続けていました。

しかも、感情を押し殺して、ゆっくりと台詞を読むよう指示を出します。

そして、出演者全員が戯曲全体の台詞を理解するように導きます。

でも、そんなに多くの言語は覚えられない、理解できないですよね。

 

これは映画の中で触れられていたことではありませんが、

その理解を可能にするのがスタニフラススキーシステムであり、

ジブリッシュの稽古を日頃から積み重ねることも必須だと感じました。

稽古シーン、丁寧に撮られていて、身を乗り出して観てしまいました。

私、やはり演劇好きのようです。またやりたいなぁ・・・。

 

本作には言葉を話せず手話で演じる韓国人女優が登場します。

この役はパク・ユリムという女優さんが演じてまして、

『ワーニャ伯父さん』の公演でのクライマックスシーンは圧巻です。

本映画作品にも『ワーニャ伯父さん』にも、

とにかく人は生きるのだというテーマがあると感じておりまして、

つまり、生き続ける以上、大事な人の死を体験することになるけど、

それでも人は生きていくのだ・・・と、簡単にいえばそういうことです。

それを手話で伝える、いや、私は字幕を読んでいるのですが、

彼女が演じるソーニャが手話で伝える姿にかなり高揚しました。

『ドライブ・マイ・カー』のカーは「人生」ということなのかな・・・と。

 

このシーンで映画は終わっても良いように思ったんですけど、

ラストシーンはラストシーンで意味があるようなので仕方ないです。

普段以上にダラダラと長い文章になってしまいました。

読んでいただき、ありがとうございました。