母の死から一年が経ちました | 南国うさぎ★のほほんブログ

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2月14日。

バレンタインデーですが、昨年の朝、母は病院で天国へ旅立ちました。

最後の瞬間は、家族と一緒でなくて寂しかっただろうと思います。

 

1月25日の朝、意識レベルが薄くなり、訪問看護師さんの判断で救急車を呼びました。

自宅で在宅ワーク中で、訪問看護師さんが救急車を呼び対応してもらっている間に、会社と連絡を取り早退させてもらいました。

 

父と母を乗せた救急車の後を、私は自分の車を運転して付いていき、かかりつけの医大へ。

 

通常の入院患者ならコロナ禍で面会もできず洗濯物の受け渡しを看護ステーションでするのみの状況でしたが、おそらく母は救急車で運び込まれた状況から担当医には終わりが見えていたのか、入院したのは個室でした。そして、近親者であれば毎日何時間でも面会自由という特別な状況でした。

 

亡くなるまで3週間でした。

 

私と父、母の妹である叔母さん夫婦。

4人とも、母の死を待つだけのその状況はすぐには受け入れがたく、元気になって退院するかもしれないというわずかな希望だけで、4人ともただただ毎日お見舞いに通いました。

 

入院してからの母は、数日は、しゃべれなくてもうなずいたり、目が合ったりしていましたが、そのうちに眠っているばかりになりました。意識はありませんでしたが、「声は本人に聞こえているんですよ」と医者が言うので、みんなで話しかけていました。

 

ベッドの横で、

「おうちに帰るんやろ?」

「頑張らんといかんよ~」と代わる代わる声を掛けました。

 

叔母さん夫婦や父は、来られない日が時々ありましたが、私は一緒にいれるのはあと数日しかないという気持ちで、毎日欠かさず通い2時間ほど母と過ごしました。

 

父や叔母さんはどうだったか分かりませんが、

私は、

最初の1週間は、また元気になっておうちに戻ってくると思いたい気持ちがありましたが、何度も担当医と面談し状況を確認する中で、2週目3周目になると覚悟も決まり、頭の中で、いざという時の手続きなどを少しずつ考えるようになりました。

 

握っても握り返してくれない母の手。

 

長年のリウマチで手は変形し、全部の指の関節が脱臼したようにぶらんぶらんとした状態で物をつかんだりすることもできなかったので全介護の状態がここ5~6年の様子でした。毛細血管は細くなる一方だったので、ちょっとチカラがかかるだけであちこち内出血していました。

 

病院へ行く度に、母の手をとり、帰り際には「明日また来るね~」と言っておでこを撫でました。

 

この入院の3ケ月前。

 

数か月の入院からやっと退院してきた2020年の10月25日。

気分が良かったのか「コスモス見に行こうか」という母を連れて西都原へ。

どこまでもつづく満開のコスモスを眺めながら、

「これが最後の花見かな。」

とぽつんとつぶやく母に、

「来年の春も、ここは菜の花と桜が咲くからね~。また来よう。」と言いました。

 

母は自分の命の時間を感じていたのか、どんな気持ちでこのコスモスを眺めていたのでしょう。

 

これが最後のお花見のお出かけになりました。

 

その後、年末までは、心臓に水がたまりにじみ出しているせいで肺の半分が水に浸かっている状態で、酸素ポンべで酸素取り込みをして

なかなか苦しい2ケ月でした。

 

翌年の1月25日、救急搬送後、入院。

2月14日永眠。 心不全でした。

 

母が亡くなってから、父は何もしなくなり認知症が進みました。それまでできていたこともできなくなり、毎日、食べてテレビを見るだけに。自分で何もしようとしないので、目が離せず、私は5月に勤めを辞めました。お墓の建立も、お盆の準備も、なにもかも私が主導権をとって進めてきました。

 

このままではいけないと、父の知人に頼んでグランドゴルフに誘ってもらったり、書道に連れて行ったり。色んな所へお出かけしたり。少しでも脳を刺激するように仕向けています。

 

日常の会話などにさほど支障はありません。でもいろんなことを忘れます。何度言っても分からなかったり、翌朝になると忘れていたり。しなくてもよいことをしたり。かと思えば言わなくても分かっていたり。

 

判ったり分からなかったりで記憶や日々の言動がまだら状態。軽度の認知症と診断を受けました。

 

これ以上ひどくならないように、様々なことに気を付けて行かないといけません。

 

長年母の介護をしてきましたが、今度は認知症の父を見守ることに。

 

母が亡くなって一年を機に、お世話になっている叔母さんへ思い出のアルバムとフォトフレームを作ることにしました。

 

84歳で亡くなった母の妹である叔母さんは、先月75歳になりました。アナログ世代なので、母が亡くなった時から、1年忌の時にはアルバムを渡さねば、と通夜の時に思ったのを覚えています。

 

なので、通夜の時も葬儀の時も写真をあちこち撮りました。そしてこの一年間母にまつわる事を写真に撮ってきました。データをカメラ屋さんへ持って行き現像。アルバムを買って作りました。キングサイズで88枚が収納できます。

 

そして、このブログでお友達になったゆるびさんに、フォトフレーム作成をお願いしました。

プリザーブドフラワーで思い出のフォトフレームをとてもとても素敵に作ってくださいました。

 

叔母さんにはブルー系のお花で。

左側に母の写真を入れてプレゼント。

 

我が家用にはピンク系のお花で。

仏壇の向かい側の思い出コーナーに飾っています。

 

パールを入れてもらいました。

濃い色のフレームがとてもシックでブルーでもピンクでもすごく合う。

落ち着いた感じに作ってくれました。

 

ゆるびさん、ありがとう。

 

叔母さんはとても喜んでくれました。

素敵な形ある思い出ができました。

 

フレームに入れたプリザーブドフラワー。

時間が経って色褪せたらそれはそれで味があるような。

色褪せたものを新しく作り変えることもできるそうですよ。

 

一年忌は2月13日に行う予定でしたが、お寺のお坊さんが濃厚接触者になり、検査結果は陰性でしたが、まん延防止が3月6日まで延期になったのもあって、3月13日に変更しました。

少しずつ感染者数も減る傾向にはありますが、こんなご時世なので色んな事がままならないですが、仕方がないですね。

 

ブログを書くにあたって、色んな想いがよみがえり、一年経った今でもボロボロと涙が出ます。

なんども下書きを繰り返しました。

母を思うとまだつらいです。

 

来月に延期になった一年忌。

無事に済むよう準備中です。