サヨナラ、恩着せがま子と恩着せがま男 | マキオカのネイチャーな日々

マキオカのネイチャーな日々

山梨県の牧丘に手作りの2区画だけのキャンプ場を作りました。

広い空には満天の星。
ティピィの煙突からはバーベキューのけむりと笑い声。
ハイジのブランコは空まで届きそう。

いるだけで気持ちが和んでいく。そんな不思議なキャンプ場から贈ります。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

我が家では恩着せがましい女を「恩着せがま子」、男を「恩着せがま男」と呼ぶ。
例えば、ふんどし息子が「いつも美味しいお酒が飲めるだろ。俺のお陰で。」とか言ってきた場合、「うわー、恩着せがま男になってるよー。」と返すというような使い方をする。

人は誰かに何かをやってもらって心から感謝していても、恩着せがましくされた途端、あーら不思議、感謝の氣持ちが忽ち雲散霧消してしまうのは何故だろう。

しかもそんなことは重々分かっているのに、つい「○○をやってあげたのに」と思ってしまい、あまつさえ口に出したりほのめかしたりしてしまうのはどうした訳か。

こんなことを書いているのも、最近ふんどし息子とケンカした際、「恩着せ合戦」になることが多いから。

「料理をしてあげたんだから、もっと感想をちゃんと言ってくれよ(感謝しろよ)」
「ありがとうって言ったじゃん。ママだって食器洗ってあげてるし(こっちにも感謝しろ)」
「そんなこと言ったらオレだってマキオカで薪作ってあげたじゃん(そっちこそ感謝しろ)」
「それ、言っちゃう?そんなこと言うんだったら、こっちだって言っちゃうよ?・・・(以下省略)」
などと、「感謝してほしい欲」が両者共に炸裂。
バカバカしい口喧嘩が延々と続くことになる。

ああ、愚かなり。がま子とがま男・・。
まあ、頭では分かっちゃいるんですよ。下らないって。

【恩着せがましくなる人の心理 - カウンセリングサービス心理学講座】によると
『「自分の苦労が報われていない。」「あんなにがんばったのに、正当に評価されていない。」「私のしたことをわかってくれていない。」など、承認欲求が満たされていないと、恩着せがましくなることがあります。自己承認が苦手で、周囲に認めてもらおうと自分を主張しがちです。』

そう、なんか認めてもらいたいんですよ!
何故だか知らないけど。

『「してやった」「やってやった」という言葉を翻訳すると、「私はあなたのために○○してあげたのに、あなたは私のために△△してくれていない。」という否定や要求の表現になります。そんな言い方をしたら人から嫌がられるのに、それでも恩着せがましくしてしまう背景には、次のような心理が考えられます。
ひとつは、過去の行為(恩義)を盾にとって相手を支配し、自分の思い通りにコントロールしようとする心理です』
『恩着せがましい人は、実は「お願い下手」です。素直に頼めない、かわいく甘えられない、頭を下げてお願いできない、といった傾向があります』

心当たりがあり過ぎて、イタイ・・。

『もう一つは、「認められたい」「褒められたい」「感謝してほしい」といった承認欲求です。この承認欲求は誰もが持っています。
私達は他者からの承認を受けて、自分自身を承認するようになっていきます。
そして、自己承認ができるようになると、他者からの承認の有無に気持ちが左右されなくなります。
ところが、恩着せがましくなる人は、自己承認が苦手なようです。』
『承認欲求を自分で充足できないので、常に外側に承認を求めようとします。繰り返し「褒めて。褒めて。褒めて。褒めて…。」としていると、人からは邪険に扱われます。だから、絶対に承認を得られる出来事を「○○してやった」と振りかざすようになっていきます』

人から褒められたいけど、いい大人がそんなこと露骨に言えないし邪険に扱われたくないから、恩に着せちゃって承認欲求を満たそうとするのね。
なんだか悲しい・・・。

『恩を着せられたと感じる時、私達は「あなたのせいでこんなに大変だった。」と言われているように理解しがちです。まるで相手から埋め合わせを要求されているように感じることや、自分を否定しなければいけないように感じることが不快の元になっています』

いいじゃん。
もー、メンドクサイからテキトーに承認欲求満たしてあげれば!

『では、恩着せがましい人に対して、認めたり、褒めたり、感謝したりしていれば恩着せがましくなくなるかというと、残念ながらあまり変わらない場合もあります。
本人が承認を受けとめる状態を作らないと、承認欲求はなかなか満たされていかないようです』

            ∑(!? ̄Д ̄)゚Д゚)・д・) エェーッ!!
変わらないんかいっ!!

「恩着せがましくされた」と感じる側に問題がある場合も。

『自己否定がある人や「相手に要求されている」と感じやすいタイプの人は、相手の何気ない言葉が恩着せがましく聞こえやすいようです。』
『恩を着せられる側は、交換条件になっていない見返りを求められたり、過去の弱みに付け込んで奪われたりする態度に感じるので、不快になります。無力感や罪悪感を刺激されるので、「頼んでしてもらったわけじゃない!」「自分でできるならば、自分でしていた!」「何回も同じことを言わないで!」と反発を感じたりもします』

ああ、どこかで聞いたような(または言った)セリフが並んでる・・・。

要は、恩着せがましくなるのって「自分の苦労が報われていない」「あんなにがんばったのに、正当に評価されていない」「わたしのしたことをわかってくれていない」と、承認欲求が満たされていないタイプが陥りがちなのね。
それに対して、自己否定がある人や「相手に要求されている」と感じやすいタイプの人は、相手が一切恩に着せるつもりがなくて言ったことでも、恩を着せられているように聞こえてしまうことがあるってことらしい。

『恩を着せられる方は嫌ですけれど、恩を着せている人の心の中には、ずっと満たされない寂しさや切なさ・虚しさがあるのかもしれません』

うーむ。
がま子やがま男は心の中で「寂しいんだよぅ。もっと優しくしておくれよぉ。いい子いい子して欲しいんじゃあ!」と、叫んでいるのね。

『相手を変えようとしたり、無視しようとしたりして心の中で葛藤せず、軽く流せばいい』なんて書いてあったが、それは無理というもの。
がま子やがま男の毒は、関係が近ければ近いほど、聞いている側の理性的な仮面をはぎ取ってしまうので、よほどの手練れでないと、がま子やがま男を氣持ちよくさせてあげるセリフは断じて言いたくなくなってしまう。

恩着せの感染力は半端ない。
「恩に着せるなんて恥ずかしいこと」と言っていた人も、相手に恩を着せられた途端、ムクムクと「わたしだって○○してあげた」などという氣持ちが沸き上がり、知らず知らずのうちにがま子やがま男になってしまう。
オソロシヤ。

さらに、がま子やがま男が親だったりすると、思っている以上の悪影響が出る場合も。

親になり、平常心の時は「親って、子どもによって育てられる部分あるよね。」「子どもって3歳までに一生分の恩返しをするんだって」などとキレイごとを言えていても、いざ子どもが逆らったり口答えしたりすると「あんなに○○してあげたのに!」と言いたくなるもの。

ある教育学者は言う。
『親は自分のやることに、自分で意義を感じることができないので、"おまえのために"と、子どもに恩着せがましくなる。
そのことで子どもの人格は親に吸収されてしまう。つまり子どもも自立できなくなる。
幼い子どもは親にそういうわれると、感謝せざるを得なくなる。親がいないと子どもは生きていけないからだ』
『恩着せがましい親に育てられた子どもは、親の期待に背くことは怖い。親は子どもに感謝を要求している。
でも、そういう子どもは結局自立することなく、依存しているために他の人の行動や顔色をうかがうことばかりをして、自分の行動の結果で幸福になることは決してない』
『そして"こんなによくしてやってるのに"という、親に感謝を期待されている子どもは、自分が不幸と感じることを、禁止されている』

「子どもの人格は親に吸収されてしまう」「自分の行動の結果で幸福になることは決してない」「自分が不幸と感じることを、禁止されている」って・・・。
幼い頃は親の言うことをまともに受けてしまい、口答えできるようになるまで時間がかかる。
ツラ過ぎるよぅ。

そして、がま子やがま男を嫌悪していた子どもは、成長して同じがま子やがま男になっていく。

恩着せは連鎖する。

「人間は『「してもらったこと』の35倍多く『してあげたこと』を覚えている」という。
35倍って、あんた・・・。
してもらったことは生涯忘れるな」なんて立派なセリフがあるのも、それを実行するのがどれだけ難しいかってことの証明なのかも。

イカーーン!
断じて、がま子やがま男になっちゃイッカーーーン!!
と、我が身を顧みて叫ぶわたし。

それはともかく。

日本には『恩送り』という素敵な言葉がある。
受けた恩を誰か別の人に送り、その人がまた別の人に渡すことで恩がぐるぐると世の中を回ることをいう。

江戸時代には「恩送り」という言葉が日常的に使われていたんだそう。
受けた恩を誰かに手渡すことで互いに生かされ支え合う社会って、とても成熟していてカッコイイ。

恩を感じるしなやかな感性を磨き、受けた行為に感謝し、謙虚な氣持ちで受けた恩を世の中に返したいもの。

わたしはここに高らかに宣言したい!!
「サヨナラ、恩着せがま子」と。

まずは「○○してあげた」「○○してやった」という言葉から卒業だ!

その時、ふんどし息子の声が。
「ねえ、ここにあったシャツ、知らない?」
「脱ぎっぱなしだったから洗濯してあげたよ。」
「それ、今日着て行こうと思ってたのに」
「なによ、せっかく洗濯してやったのに!」

嗚呼、言うは易く行うは難し。

「恩を感じるしなやかな感性」だの「受けた行為に感謝する謙虚な氣持ち」からは程遠い我が身を恥じ、うなだれるわたしなのでした。

つづく