真央ちゃんは日本の雛型 | マキオカのネイチャーな日々

マキオカのネイチャーな日々

山梨県の牧丘に手作りの2区画だけのキャンプ場を作りました。

広い空には満天の星。
ティピィの煙突からはバーベキューのけむりと笑い声。
ハイジのブランコは空まで届きそう。

いるだけで気持ちが和んでいく。そんな不思議なキャンプ場から贈ります。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

昨日の真央ちゃんの演技、涙なくしては見られませんでしたね。

なんちゃって。

実は普段あまりテレビを観ない上に、20日のショートプログラムの失敗を聞き、怖くてリアルタイムでフリーを観る氣がしなかった意氣地なしのわたし。

ネットで「真央ちゃん、立ち直って大成功。」という話を聞きつけ、やっとYou tubeで観ることができました。

リアルタイムでの緊張感と興奮に耐えられない体質になってしまったのは歳のせい?
もしや孫がリレーの選手に選ばれてもドキドキしてビデオでしか観ることができないのではあるまいか。

うぅ・・情けないよう。
でも日本中にわたしのような人間がいっぱいいるに違いない。

成功したと分かっていても、真央ちゃんの演技を観ていたら自然に涙が溢れてきました。

よく頑張ったね。
苦しかっただろうね。
乗り越えるのは大変だったね。

歳を取ると涙腺って確実にゆるくなる。

若い頃は、「泣かないこと」が強い自分であるように錯覚していた。

が。
人生長くなると、痛い目に遭ったり、嬉しい思いをしたりして、切ない氣持ちをたっぷり経験するから感情移入する場面が若い頃より格段に増える。

だから若い頃「こんなことぐらいで泣いたりして。」と馬鹿にして嗤った自分がいかにアサハカだったか歳を取って思い知らされることになる。

自分が小さかった頃を思い出して。
小さかった子供の氣持ちを慮って。
孫が成長した時を想像して。

あっという間に涙腺が崩壊。
歳を重ねるってそういうことだと思う。

それはともかく。

FBで以下のように書いている方がいた。

『「メダルよりも大切なことを教えられた」

これは僕個人がそう言ってるのじゃなく、なんと中国、微博(ウェイボー)や韓国のネット上でも、多く書き込まれている声なんです。
...
浅田真央選手のフリーの演技は、国を超えて、ほんとに多くの人の胸に響いたんですね。

よくスポーツ、音楽、芸術などは国境を超えると言いますが、つまり感動に国境は無いということでしょうか。
なぜこれほどまでに、真央ちゃんの演技が人の涙と感動を呼び起こしたのでしょうか。

僕はフィギュアのことなどまったく分かりません。
でも真央ちゃんの演技の数分間、僕は永遠とも刹那とも言えるような、超越した時間の中にいたような氣がするんです。
大げさに言えば、人間の究極を行く人が伝えるメッセージ。それに触れたような感覚。

とにかく真央ちゃんの姿に神々しいものを認めました。

決してリアルタイムの感興とお酒の妄想がもたらす感覚ではありません。
ほんの少しの選ばれた人のみが到達できる峰があるように思います。

あの日、あの時の真央ちゃんは、刹那とも永遠とも言える時間を突き抜けて、そこに到達したのではないでしょうか。
やりぬいた、つきぬけたって感じが、浅田真央選手の全身から発されていました。
多くの人は、その発散された「氣」にやられたのではないだろうかと思うんです。』

自分の精神と肉体をコントロール出来ず、満天下に惨めな姿を曝した僅か1日後に、失意のどん底から立ち直って自己ベストの滑りが出来た真央ちゃん。

「穿った見方だ」とお叱りを受けることを覚悟でいえば、わたしはソチの真央ちゃんが、これから日本の行くべき方向を示唆しているような氣がして仕方がない。

遮二無二貶められようが、傷つけられようが、一心に突き進み、天辺を目指してきた日本。
もう少しで目指すものに手が届くかと思いきや、ちょっとした油断で底辺に叩きつけられる。
苦悩し、もがき、恐れ、もうダメだとあきらめかけた時、目の前の霧が晴れていく。

自分の進むべき道が、あるべき本当の姿がくっきりと見えてくる。

それは国としての目先の利益や計算ではなく、人類の未来を見据えた道。

自己を捨てた本当の美しさが、心から湧き上がる感動を人々に与えるということを真央ちゃんが体現してくれた。
それは金メダルによる地位や名誉や華々しい賞賛より、ずっと清々しくかっこいいものだった。

失意の底から、「感謝」の氣持ちを胸に復活した姿は、確かにわたし達に希望を与えてくれた。

欲しいのは金メダルではない。
人と争うことではない。

自分を生かし、人を生かすこと。

利他の国、日本の進むべき道はそこにあると確信した。




つづく