思い出に変わるとき | みやみの『住めばmiyako』

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いつか沖縄で開業する日を夢見て、仕事に遊びに全力疾走中♪

非日常から一夜明け、いつもの日常が戻ってきましたみやみ@司法書士でございます。

 

月曜日といえばポイント練。

シュウイチノルマのインターバル。

 

先週はフルマラソン明けという大義名分を引っ提げていたため、インターバルは二週間ぶり。コンスタントにこなしておかんと、サボったツケのハードルが高え!

 

とはいえ、アオタイまで一ヶ月。

そろそろメニューもレース仕様に変更。

 

そんなわけでセンバルも5本から3本へ。

距離は落として強度は落とさず。

と、したり顔して←よーいどん。

 


 

3.50-3.50-3.55

最後キレイにタレましたww

 

てか、一度楽すると(楽じゃねーけど)、もう二度と5本なんかに戻れない気がしますね。夏なんてそれこそ1600×3本とか、時には1000×6本とか、あんときのわたしマジすげえ(ひとごと)

 

人は易きに流される

みやみも当然流される

 

とりあえず、しばらくは「ちょーしん乗って走りすぎない」ことを目標に、あと一ヶ月過ごします。(50キロ走ってサ活するとかな禁止)

 

 

◆◆◆

 

 

週末は、広島に行ってきました。

 

本当ならおかやまマラソンが開催されていた11月の第二週。


時間も身体も空けていた週末に、ちんたらタマリクを走ってられっか、と、すでにココロは中国地方。岡山は数年前に走りに行ったしということで、今回はそのお隣の広島に白羽の矢が立ちました。

 

そんな広島は、昨日駄ブログでお伝えしたとおり、父の生まれ故郷。

 

わたしも小学校~高校(1年)までのお盆時期は帰省する父にくっついて、毎年そこで過ごしていました。

 

わたしの記憶の中にある父の生家は、それはそれは絵にかいたようなイナカ(失礼)の集落にあり、

 

車も通れないような路地が入り組み、改めて歩くとそこはまるで、ラビリンスのような町でした。





 

ザンネンながら、10年ほど前に、家を守ってきた父の兄が亡くなり、以降、生家は無人となり、関東に住む人間が相続したため、手つかずで放置されていたこともあり、荒れ放題になっていました。




 

ほんとうは、ここに大きな池があってね

鯉もたくさん泳いでいてね

広い縁側に座ってスイカ食べながら

それを眺めていたんだよ


 



と、指さしながらサミーさんに説明するわたし。話しながらどんどん記憶が蘇る。

 

そうそう、みんなでトンボとりしたな

隣んちのようこちゃんとよく遊んだな

夜になると浴衣を着て

町内の盆踊りに連れて行ってもらったな

 

あのときは、そんな日々に終わりがくるなんて、想像もしていなかった。いつでもここにはみんながいて、いつでもここには「田舎」があった。

 

父はわたしが幼いころから、いつも家族に、「いいか、万一大地震が来てはぐれたら、この広島に電話するんだぞ」と、繰り返し繰り返しその電話番号を暗記させ、それは今でもソラで言える笑

 

あのころ、ここは永遠に存在すると思っていたわたしたちの要だった。わたしたちの大事な「田舎」だった。

 

ねえ、おとうさん、

大地震が来る前に、広島の田舎なくなっちゃったよ。

 

そんなセンチメンタルに浸っていた昨日。

なんかね、色んなことを感じてしまって。

 

永遠につづくものなんてないんだなあ、とか

こうやってオトナになっていくんだなあ、とか

もう二度とあんな日々は訪れないんだなあ、とか

 

それは、もの哀しくも、どことなく甘い。

「思い出になる」ってそういうものかな。

 

今は、こんなわたしのつまんない人生に、そんな「思い出」があることで、「悪くない」人生になる気がします。

 

そんな場所があってよかった。

今回、そこに行けて良かった。

 

そんなわたしの広島のたび。


 

※小学校5年のとき。生家の正門で。