少し前になりますが、三夜連続でやっていた「ブラックボート」というドラマがあリました。。
それぞれの時代を生きた、「教師」の物語なんですが、
いや、三夜全部泣いちゃいました。![]()
最近、涙腺がもろくなったのもありますが、なんつーか、勧善懲悪的な、わかりやすいお涙ちょうだものに、まんまとハマってしまいまして。
このドラマ。
生徒思いの熱い教師が、生徒と向かい合い、行き違いや困難を乗り越え、最後はハッピーエンドという筋書きなんですが、どの先生も、真っ直ぐで素晴らしく、ああ、教師ってこんなだったんだっけ、と振り返りました。
正直、わたしは「教師」、自分が習った先生で、「素晴らしい」と思った記憶がありません。
振り返っても、いい先生だったなって思える先生がいないのです。
もともと、どっか斜に構えて、先生に反抗する方がかっちょいいと思っていたバカものだったので、自分の心がそうさせていたのかも知れません。
今考えると、きっと素晴らしい出会いもあったんじゃないか、とも思います。
そんな、「学生」をしていた16年間を思い返すと、一人だけわたしの人生に関わってくれた先生がいます。
高校生のとき、論文の授業を担当していたC先生。
論文の授業自体、1年しかなく、それ以外接する機会もなく、東大出で、ぼっちゃんみたいな顔をした先生で、特に親しかった印象もないんですが。
そのC先生。
わたしの高校は大学までエスカレートでいけるので、高校三年のときに進路希望を出す時期がありました。
わたしは、どーせなら4年間遊びたいと短大ではなく大学を希望。それもわりと人気のある国文科。それを、たいして成績もよくないのに、ずーずーしく第一希望にして提出をしました。そうは言っても、まあ、何とか受かるくらいの成績は収めているだろうとタカをくくって。
進路発表の日。
わたしは、国文科に進めることが決まりました。
やっぱりね、そのくらいの成績はちゃんととっていたんだよね、とご満悦のわたし。
そうこうして、卒業式を迎えたとき、実はと、担任の先生が教えてくれました。
わたしの成績では、国文科には行けなかったこと。それをC先生が強く推してくれたこと。あの子には文章を書く才能があるから、絶対に国文科に行かせてほしいと頼んでくれたこと。
全然知りませんでした。
その進路発表の後にも先にも、C先生は変わらず淡々とわたしと接し、変わらず教壇に立ち続けたのだから。
それを聞いたわたしは、初めてC先生と授業以外で話しました。
卒業式の日、ありがとうございました、とその時はじめて言いました。
抱えていた卒業アルバムに、先生は寄せ書きをしてくれました。
「いつか、文壇かジャーナリズムの世界で見慣れた名前をみかけることを期待しています」
わたしの好きなことを初めて認めてくれた先生。
結局、わたしは全然そんな世界にはいないけど、今でも思い出すたびに感謝するのです。