厚い雲に覆われた光。 | まきおの隠れ宿

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劇団スタジオライフの牧島進一です。
皆様との交流の場をコソッと増やそうとブログを始めてみました(^_^;)
内容は徒然、不定期更新になると思いますが、
宜しくお願い致します!

2016年8月3日。
ジュニアファイブ「厚い雲に覆われた光」2日目を観劇。

昨年の食卓の華で初めてオノケン作品に触れ、一気にその虜となったまくしも。
今年も本当に待ち侘びておりました。

さてさて、この度は観劇に際して先入観が生まれかねないブログを書きたいと思います。ネタバレには程々に注意を払っておりますが、観劇に際し余計な情報の流入、また邪念が生まれる恐れがあります。取扱いにはご注意をお願い致します。



劇場は勝手知ったるウエストエンド。つい先日スカスカを観たばかり。スリーメン、ヤマガヲクと続けて観ているのでさすがに特に感慨も感じず入場。しかし、

「ここはどこだ?」

入ってびっくり。これから何が始まるんだと期待が高まる美術。昨年の食卓の華の部屋の中の一幕とは全く違う。開演前のひと時、舞台を眺めているだけで自ずと芝居の世界に入り込む準備が整ってしまう。


やがて開演。

僕は観劇の際予備知識を一切持たず観る。

観ながら設定や関係を理解していくのも楽しみの一つであるから、ということもあるが、直感として

「オノケンは絶対予備知識ゼロのお客さんに仕掛けてくる」

という予感もあった。

今でこそ原作のある作品が多く上演され、またレパートリーで上演されるミュージカルや戯曲も多く存在するが、小劇場ブームの時代はオリジナル作品が数多く存在していた。

かく言う僕も90年代に学生演劇で芝居作りに携わり、オリジナルだからこその

「お客さんに作品を理解してもらう道筋」

を作ることはかなり神経を使っていた。
情報過多になると説明的になりすぎて、それはお客様から「観る側自身で物語を紐解いていく」という観劇における一つの楽しみを奪ってしまいかねない。
逆に情報が不足し過ぎると、作品に着いて行けずにお客様が置いてけぼりになって話が進んでしまう。
その辺の計算も含む描き方は、例えるなら絵画を描きながらそこに数式を乗せていくような作業だ。
根っからの文系の僕はこの作業が苦手で、脚本を書き終えて尚、稽古を進める中で台本の直し作業を繰り返していた記憶がある。

と、話が逸れてしまった。
何が言いたかったというと、食卓の華でオノケンが見せてくれたその「道筋」は、僕の感覚では限りなく「絶妙」に近かった。

想像が膨らむ。
でもわからない。
一つ確信が生まれる。
また新たな想像が膨らむ。

そんなサイクル。
そしてそれは、予備知識がない程明確に訪れる。
作り手が「予備知識のない観客」を想定して構築しているからだ。

だからこそ僕は、空っぽの状態でこの開演の瞬間を待っていたのだと思う。

そして、その予感は的中。

おりなす物語は決してポップでキャッチーな作品ではなく、どちらかと言えば心に重くのしかかる。しかし、随所に温かさとユーモアが溢れ、決して暗くは感じない。言葉の妙には磨きがかかった感もあり、序盤から客席でクスクスと笑いが起こる。

日常の中で訪れた非日常。
そして、非日常が日常となった世界。

錯綜する世界の中を旅するうちに、徐々に人物像が組み上がっていくような感覚。

主人公の想いも痛い程に伝わるが、
それだけでなく、登場人物各々の想いが流れ込む。いつの間にか

「皆に幸せになって欲しい」

と願わずにはいられない自分になっている。


今回の作品では「家族」という枠を飛び出し、登場人物も多岐に渡るが、やはりそれぞれに想いがあり、ある意味で街全体が家族のような感覚も覚える。だから、やはり、家族のような温かさが常に舞台の上にある。


きっとオノケンは、登場人物全てを「生きた人間」として描きたいのだと思う。物語の都合で出てくるようなポイントの役は作らない。作品の生みの親としての責任感と、演者一人一人に対する愛情もあるかも知れない。

それ故、役者に課せられたモノも大きくなる。どの役でも中途半端は許されない。
舞台に於いては当たり前のことかも知れないけれど、そこに生きていなければならない。


歌やダンスがある訳でもない。
カッコいいアクションシーンがある訳でもない。
BGMは殆どなく、作品を通して聞こえてくるのは波の音と蝉の声。

でもだからこそ、役者はそこに真実を求めずにはいられなくなるはずだ。


そして今作品、本当に、観ているのが嫌になるくらい、みんな生身で生きて、苦しんで、悲しんで、泣いて、笑っていた。


「芝居のやり方って色々あるけどさ。俺は着飾るのってあんま好きじゃないのよ。俺にとって芝居は脱ぐ作業。どんだけ裸の自分を舞台上で晒せるかだと思うんだよね」


かつてオノケンと共演した時、彼が何気なく話していたことを思い出す。

そして、彼が演出となった今、彼と共に舞台を作る全員が、己の裸の想いを演じる役に内包して、舞台上で真実の想いを言葉と身体に乗せている。


多分僕はそれが堪らなく好きなのだ。


僕の芝居の原点は決してそこではない。
ダンスありアクションありの作品が大流行した時代を生きてきた。

でも、こんなにもオノケン作品に魅力を感じるのは、

僕が芝居を始めるもっとずっと前の、

家族5人が当たり前のように暮らしていて、それがこの先もずっと続くと信じていたあの頃と、


ほんの少し、同じ匂いを感じるからかも知れない。



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