
存在しない十三人目
第7話 十一月十八日
名前を消したのは私だ。
冬真という名前を与えたのも、私だ。
父の字だった。
相馬冬真は、
赤いファイルを閉じることができなかった。
自分の名前。
三十二年間、
疑ったことすらない。
学校で呼ばれた。
友人に呼ばれた。
母に呼ばれた。
父に呼ばれた。
会社でも、
今まで何千回と呼ばれてきた。
相馬。
冬真。
それが自分だった。
なのに。
一九九六年十一月。
七歳前後の少年に、
「相馬冬真」という名前が与えられている。
冬真は立ち上がった。
洗面所。
鏡を見る。
三十二歳の男。
見慣れた顔。
「俺は誰だ」
馬鹿げている。
鏡の中の自分は何も答えない。
冬真は水で顔を洗った。
戻る。
赤いファイル。
続きを読む。
怖かった。
だが、
ここで閉じれば、
また誰かが用意した情報に振り回されるだけだ。
冬真は次のページを開いた。
1996年11月18日 18:40
対象07 搬入
搬入。
人間に使う言葉ではない。
その下。
意識清明
外傷軽微
身元確認不能
所持品なし
そして。
発見地点 白沢
冬真の指が止まった。
今日行った場所。
白沢駅。
父と三枝が写真を撮った場所。
あの古い建物。
すべてが、
一九九六年十一月十八日に集まり始めている。

次のページ。
19:05 初回聴取
質問と回答が記録されている。
冬真は一行ずつ読んだ。
氏名は?
回答なし。
年齢は?
回答なし。
住所は?
回答なし。
家族は?
回答なし。
そして。
宗一郎を知っているか?
回答あり。
冬真はページへ顔を近づけた。
回答内容。
「お父さん」
冬真は動かなかった。
七歳の少年は、
宗一郎を父と呼んでいる。
では。
本当に父だったのか。
切り取られた親子関係確認検査。
生物学的父子関係を――
その先。
父はなぜ切り取った。
次。
宗一郎との面会を要求。
その下。
赤鉛筆で、
誰かの手書き。
許可するな。
筆跡は父ではない。
冬真はページをめくる。
19:22
対象07、再度宗一郎との面会を要求。
情緒不安定。
鎮静処置検討。
さらに。
別の筆跡。
不要。Sを入れろ。
S。
宗一郎。
そう思った。
次の記録。
19:31 S入室
19:33 対象安定
わずか二分。
父が部屋に入っただけで、
少年は落ち着いた。
冬真は目を閉じた。
知らない記憶。
何も浮かばない。
だが。
胸の奥に、
説明できない感覚だけが残った。
父の声。
低く、
静かな声。
大丈夫だ。
いつ言われたのか分からない。
その一言だけが、
妙にはっきり蘇った。

次のページには、
記録ではなく、
手書きのメモが貼られていた。
父の字。
この子は覚えている。
その下。
だから消す必要がある。
冬真の呼吸が止まった。
父が書いた。
記憶を、
消す。
さらに下。
ただし全部ではない。
残すものは私が決める。
冬真は紙を握った。
「親父……」
何をした。
自分に。
次。
正式な記録。
11月19日 09:10
対象07 記憶処理方針決定
冬真はそこで読むのを止めた。
記憶処理。
そんなことが、
本当にできるのか。
薬。
催眠。
心理誘導。
冬真には分からない。
ただ、
SFのように記憶を機械で消したとは考えにくい。
ページには、
方法が書かれていた。
既存記憶の完全消去は実施しない。
生活環境変更及び反復情報提示により、既存記憶へのアクセスを抑制。
冬真は何度も読んだ。
記憶そのものを消したのではない。
思い出せないようにした。
新しい生活。
新しい名前。
新しい家族。
新しい年齢。
それを繰り返し与える。
七歳の子供なら。
やがて、
どちらが本当だったのか分からなくなる。
冬真は寒気を感じた。
次。
年齢設定についてSと意見対立。
年齢。
冬真は読む速度を上げた。
管理側:対象年齢を実年齢に近い7歳とする。
S:2歳として登録することを主張。
冬真の手が止まった。
二歳。
一九九六年。
戸籍上の自分は、
二歳。
父が、
そうした。
なぜ。

ページの下に、
父の手書きがあった。
七歳のままでは追われる。
一行。
その下。
五年ずらす。
冬真は理解した。
少なくとも、
記録が事実なら。
一九九六年。
自分は本当は七歳前後だった。
だが父が、
二歳として登録した。
五歳若くした。
だから現在。
戸籍上は三十二歳。
実際は。
冬真は計算した。
一九九六年に七歳。
今なら、
三十七歳前後。
「……俺、三十七?」
思わず自分の顔に触れた。
三十七歳に見えるか。
分からない。
五歳程度なら、
外見だけでは判断できない。
だが。
小学校。
中学校。
高校。
同級生。
自分はずっと、
周囲より五歳年上だった?
そんなことが可能なのか。
身体測定。
歯。
成長。
健康診断。
絶対にどこかで分かる。
冬真はページをめくった。
まるで、
その疑問を予想していたように。
身体年齢偽装は長期維持困難。
計画再検討を要す。
次。
Sより代替案提示。
その先。
ページが、
破り取られていた。
「またかよ……」
父だ。
おそらく。
肝心なところだけがない。
冬真は破れた跡を指でなぞった。
そのとき。
裏側に、
わずかな文字が残っていることに気づいた。
破られた紙の端。
数文字だけ。
……を07として登録
誰を。
何を。
07として登録した?

冬真はファイルを最初から見直した。
七歳の少年。
07。
相馬冬真。
だが。
一つの前提を、
自分で勝手に置いていた。
写真の少年=自分。
本当に?
顔は知らない。
七歳の自分の写真と比較すればいい。
冬真は立ち上がった。
遺品の段ボール。
アルバム。
小学校入学式。
七歳の冬真。
写真を探す。
あった。
ランドセル。
父。
母。
そして、
冬真。
赤いファイルの少年と、
並べる。
「……」
似ている。
いや。
子供の顔だ。
自分だから似ていると思っているだけかもしれない。
目。
鼻。
耳。
冬真はスマートフォンで両方撮影した。
拡大する。
違う。
「……違う」
耳の形。
赤いファイルの少年は、
耳たぶがほとんどない。
入学式の冬真には、
はっきり耳たぶがある。
成長で多少変わる。
だが。
同一人物なのか?
冬真は混乱した。
そのとき。
もう一つ気づいた。
赤いファイルの少年。
左眉。
小さな傷。
冬真は鏡を見る。
自分にはない。
「じゃあ……」
この子は、
俺じゃない?
ではなぜ。
相馬冬真
と書かれている。
冬真はアルバムへ戻った。
入学式の写真。
裏。
二〇〇一年四月。
父。
母。
冬真。
三人。
何もおかしくない。
次の写真。
教室。
次。
運動場。
そして。
アルバムから一枚、
写真が滑り落ちた。
冬真は拾った。
知らない写真だった。
七歳くらいの少年が二人。
並んでいる。
一人は、
入学式の冬真。
もう一人は。
赤いファイルの、
07の少年だった。

冬真は床に座り込んだ。
二人いる。
自分。
そして07。
同じくらいの年齢に見える。
写真の背景。
例の旧市立図書館。
十二冊の本が置かれた机。
冬真は写真を裏返した。
父の字。
1996.11.21
あり得ない。
一九九六年。
戸籍上二歳の冬真。
七歳の07。
そして写真には、
七歳くらいの少年が二人。
片方は、
現在の冬真の幼少期に見える。
では。
今まで思い出していた図書館の記憶。
父が十二冊の本を並べ、
十三冊目は頭の中にあると言った記憶。
あの場には、
自分一人ではなかった。
冬真は目を閉じた。
思い出せ。
机。
十二冊。
父。
自分。
その向かい。
誰か。
顔が見えない。
いや。
今まで、
見ようとしたことがなかった。
記憶の中。
父が言う。
「ここに何冊ある?」
冬真は答える。
「十二冊」
父。
「違う。十三冊だ」
頭を指す。
「ここに」
そこまでは同じ。
だが。
続きがあった。
父は、
冬真ではない方の少年を見た。
何かを言った。
思い出せない。
冬真は頭を押さえた。
無理に思い出そうとすると、
頭の奥が痛む。
そして。
一つだけ。
声が戻った。
少年の声。
自分の隣から。
「僕は、何番?」
冬真は目を開けた。
その瞬間、
スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
出る。
「はい」
無言。
「誰ですか」
雑音。
そして。
男の声。
若い。
非通知の男とは違う。
『写真を見た?』
冬真は立ち上がった。
「誰だ」
『二人で写ってるやつ』
「誰なんだ!」
数秒。
男は答えた。
『07』
冬真の呼吸が止まる。
「……何?」
『俺が07だ』
冬真は何も言えなかった。
『だから』
男は続けた。
『相馬冬真は、俺の名前だった』
「……」
『お前の父親が』
声が低くなる。
『俺から盗んだ名前だ』
通話が切れた。
冬真は、
赤いファイルを見る。
そこに書かれた、
相馬冬真
という四文字。
そして、
初めて理解した。
父が書いた言葉。
名前を消したのは私だ。
冬真という名前を与えたのも、私だ。
その二つは、
同じ人間について書かれた言葉ではないのかもしれない。
自分が三十二年間使ってきた名前。
その名前には、
自分より前の持ち主がいた。

