社内の社員は全く気を使わない人ばかり。自分優位。

自分の失敗は謝らず、他人のせいにして怒鳴る。他人の失敗にはとことん嫌がらせする。

社外の人は凄い気を使ってくれる人が多い。他者に親切。気が回る。

私の苦労をわかってくれる。

記事とか見ると、自分優位なことばかり書いてある。それが普通であるといわんばかりに。

今までの自分は弱者の精神がたるんでいる!と蔑み切り捨ててきた、と書いてある。だがしかし自分が弱者の立場になってみるといきなり、社会が悪いと言い始める。昔切り捨てていた弱者に対し自分が悪いことをしたと思ったとは書いてない。知らなかった自分は悪くないと書いてある。弱者になってからは弱者を労わらない(過去の自分と同じように知らない)健常者が悪であるかのように書いてある。健常者が弱者を知らないなら知らしめてやる!と言っている。でも当時のその人がわからなかったんだから、その人が声挙げたって健常者がわかると思うのかな。そうたとしたら、かなり自分優位な人なんだろうな。

今まで自分がされてきたことが返ってきただけな気がするけれど。でも気づかない。

私は自分が弱者であるからこそ、弱者の立場を少しは理解出来ていると思っていた。だからそういう人の手伝いを率先してやってきた。けれども違った。好意で手伝うことは全部逆目にでている。社内はもとより。社外でも。

席を譲ればそんな年じゃない!と散々怒鳴られ。ではと、譲らずにいたらその人は私の目の前で大声で、若いモノは年寄を敬う心が無い!と回りにアピールして言う。さっきと言ってる事が真逆なことを平気で言う。

体調が悪くて座席に座って目をつむっていたら、元気な年寄にいきなり首根っこ掴まれ、狸根入りするな!とわけのわからぬまま床に叩きつけ、平然と私がいた席に納まる老人。

その場で動けなくなっても、誰も助けてはくれなかった。

ベビーカーの人がエレベータに乗るのを開きボタンを押して待っていたら。

健常者のくせにエレベータなんかに乗るな!と私を叩きだす人もいました。

世間って、それが普通なんだと思っていました。

電車内で倒れても、痴漢に遭っても誰も助けてくれる人はいなかったし。

日本人のどこが親切で優しいんだろう?といつも思っていた。外人の方が優しかったから。

自分が自分で自分を弱者で誰よりも下に思っていたことがわかったら。

自分が知らない範囲の人が目について、そこには愛が溢れていたのが見えた。

自分は弱く情けなく人から卑下されても仕方のない人間という枠を作っていたというのに気づいた。だから世間は願いを叶えてくれた。のかもしれない。

自分は価値があり、強く、何でも出来ると思えるようになったら。

見えないものが見えてきて、そこには私が求めていた平穏があった。

手を伸ばしても躊躇する自分がいるというのは、まだ自分を卑下しているせいだろうか。

もっと自分を強くすれば、自分を認められば、もっと世界は広く愛にあふれていると感じられるのかな。

自分が世界を作っている。

それがわかったら。

世界は変えられる。

今はそれを信じています。

他人はいなくて、自分しかいない。

だから誰でもない、自分を本心から大切にしないといけなかった。

だから今からでも遅くないから、自分を本当の意味で大切にするとここに誓います。