というよりも、ずーーっとそういうのが起きていました。繰り返し。
しかし意味がわからずにいたようで、同じことをずっとループしていたみたいです。
周りの社員から、「なんでそんな目に遭っていて(仕事で何度か死にかけました(今生きて居られる不思議さ)し、社長の無茶ぶりのおかげで何人か友人も失いました。全ては会社、いや社長に認められたいがために)、あんな社長に認められようとしているの?!ばかじゃない!」などなど。結構辛辣な言葉の山でした。
その言葉を当時に言われていたら、反発していたと思います。当時は友人に反発してしまいました。それで無くした友人も多々。本当に申し訳ないことをしました。
今は素直にその忠告を聞けます。
社長は、私の全人生かけて、命を懸けるに値する人間か?
全く違います。そんな価値すらありません。
では、私はなんであんなに従おうとしたのでしょう?
―
社長は外部の人間に、「馬鹿に教えるほど時間がかかって仕方がない!」「全然言う事を聞かない!ハラワタが煮えくり返っている!」社員を卑下することをよく目に耳にします。
(言われている対象者は、仕事も出来て、色々とやっています。でも社長からしたら反発しているようにしか見えないみたいです。効率云々でやっているより、社長の言う非効率をやらないから社長は怒っているようです)
そんな社長だから、社長が挨拶したところで誰も挨拶し返さない。誰も社長と心を割って話さない。
その事実を私はどう見るのか?
他社員の意見を聞いて。社長の人となりを見て。
私は社長をどう思うのか。
社長は気に入らない社員に対しては、時々腹いせなのか、怒りを爆発させる。
(社長はお気にいりの社員には、気に入らない社員がしているの以上に酷い事をされていても、気に成らないみたいです。人間の心理って不思議ですね)
その事実を私はどう思うのか?
鏡だの、引き寄せだの、全ては自分が作り出した。と言います。
そう。いつも、その落とし穴にはまっていました。
私に悪いところがあるから、だから自分がいけない人間なんだ、と。
だから、もっと頑張って他人を認めさせなくてはいけない!と。
本来すべきではない努力(他人に認めさせる)をして、本来すべき努力(自分に向き合う)をしていませんでした。
他人を認めさせる必要など、どこにも存在しないのに。
実際は。今居る現状や環境は、自分を貶めるために存在する現状でも環境でもない。
その現状を見て、自分はどう思うのか?単にそれだけでした。
単にテレビに映った現状を見て、自分がどう感じるのか?
それだけに過ぎなかった。
テレビに映る(実際は目の前の)光景を見て、私がどう思うのか。
私が見せられている光景が嫌なら、そうしないようにすればいい。
でも見ちゃったからには、とりあえず感想を言わないといけない。多分そういうルール。
だから見せられた光景に感想を言って、私はこうしたいな。こう思うな。とか内面に言ってみる。
そして、見せられたことに対し、他人はそうやってするんだとか、そういう風に思うんだ、と他人ごとのように思う(のがよいとか聞きました)
最後にはそのことから学んだね、と自分を納得させ、もうわかったからその番組を見ない!と宣言して、チャンネルをお笑い番組に変えればいいだけ。
そう思えたら、社長が怖い存在ではなくなりました。
私が社長を怖いと思っていたのは。
社長そのものではなく。社長という肩書でした。
本来社長のストッパーである役員を、社長の一声で辞めさせてからが最悪の始まりでした。
社長はその場の自分の拙い感情だけで、簡単に社員を切り捨てます。それを私は何十人も見ていたからです。
社員数15人にも満たないのに。私が勤めてから、パートを含めどれだけの社員が理不尽な社長の感情で辞めさせられたのか、それを見ていて、恐怖心が育ってしまったのです。
幽霊の正体を見たら、と同じで。
恐怖の芽が分かれば、怖さも無くなるでしょう。
まだ、社長と向き合いうのは恐怖がありますが。(普通に喋っているのに、いきなり怒鳴ってくるのですから。周りに聞いても、私は怒らせるようなことは言ってないと言います。)
ようやく今。
こういう人を見せられていて、自分はどう思う? と、視聴者の立場・感覚にまで持って行けた気がします。
引き寄せようが何だろうが。
そんなことに囚われすぎていたから、自分を負のスパイラルに貶めていた。
そんな気がします。
そんな会社に居たいか?というよりも、そんな番組をまだ見ていたいのか?
答えはno.です。
引き寄せの法則によると、自分の意識が変わると、変化が自然に起きると言います。
今まで起きていないのは、自分の負が大きいというのと、私がいないと他社員が困る(他部署の仕事も掛け持ちしていますので)というのと、何より、この会社を辞めた後を考える不安が大きいのだと思います。
神様は、どんな子供でも愛して決して悪い様にはしない、と言います。
それを信じられるのであるなら。
私はどんなことになろうとも、神様がどうにかしてくれるはず!そう信じてみます。
それが、目の前のことを一生懸命やりなさい、ということなのでしょうか。