友人と話していて、苦手な人がいるかいないかという話題になると、毎回

「私は苦手な人がほとんどいないなぁ」という結論に至るのですが、それはなんでだろう?とちょっと考えてみました(笑)


相手によって変化することがあまりないからかな?と思いました。

相手が未知なる人で、予想と違うことをしても、私が根本から揺さぶられることはあまりないからかな?と。


そして、それはなんでだろう?

答えは「もうびっくりしたくない決意」

をずっと繰り返してきたからです。


苦手だと感じるのは、驚くから疲れるということでしょう?

人だけでなく、味も苦手と表現しますよね。

驚くというのは、まず自分が思う普通とか当たり前があって、その基準と差が生じると違和感を感じて驚くんだと思うのです。

なんについても自分の基準を設けていれば、確かにその都度、差を感じる場面が多いと思います。

差の振り幅が大きいと疲れるので、

「〇〇は苦手」と表現するのだと思います。


かといって私にももちろん基準があります。

その設定は生い立ちや時代背景や環境によって無意識に生まれたものもあれば、習慣や経験で意識的に設けたものもあります。

私が人と比べて基準を持っていないわけではありません。

ただ、そんな基準は私を疲れさせるだけと思っています。

そもそも自分の基準なんて信用していない(笑)そんなのは思い込みと大差なく、たいがい外れて自分の普通に裏切られてきました。


どこにも普通はない(笑)と知ってる今、なんであろうと元々そこになく、目に見えないものさしで測るのをやめようと思っています。


むかしから親しい友人とは、

「もうびっくりしたくないよね!」と語り合ってきたのですが、そんな決意も虚しく、度々「度肝抜かれた!」とヒーヒー言うことを繰り返してきました(笑)

でもその都度「もうびっくりしたくない」と決意することも繰り返してきたのです。


びっくりしたくないなら、自分の普通は幻想だと認めることです。

苦手な人なんて存在しない方がいいのです。

その方が断然エネルギーはスムーズに流れるんだから、私は現れて欲しくないと思っているのです。


まさか「風に吹かれて気付けば苦手な人がいなかった」なんてわけではありません(笑)

現れるたびに自分の幻想を退治し、びっくりしたくない決意を繰り返しています。