娘が京都の大学に通うことになり、家を出て1年半が経ちました。
私も娘と同じ歳に、高校を卒業し、短大に通うために親元を離れました。

私と似てるのか、娘はほとんど辛いという気持ちを口に出しません。
おそらく視線を向けている先が、心細く辛い気持ちよりも、叶えたいことや創り出したいことに照準が合っていて、他のことが霞んでいるのだと思います。

何を見るかは、その人が何に照準を合わせているのかにかかっています。
隣の人にはっきり見えていることが、自分には全く見えないということが起こり得るのです。
音も同じですね。
高い周波数はある人には聞こえ、別の人には全く聞こえません。

何を見るのか、何を聞くのか。

それらは環境や条件など、自分以外のものに決められてしまうのだと思い込んでいる人がいます。
そういった話は、さも人々の真実のように語られてきました。
時代が悪かった。
みんなそうだった。
我慢するしかなかった。
あの人からそうさせられた。

どのような場所にいても
「なんのせいでもない」と決めた人は、自ら選んだ的に照準を合わせ始めます。

「得だけ選んでね」
私が時々、周りの人にお願いしている言葉です。

どんな考えを選んでも自由な世界ですが、
自分の励みになったり、楽しくなったり、心が安らかになる思考のチョイスをしてほしいなと思うのです。

もちろん、もともと不安や疑念に照準が合わず、それが見えない人はそのままでいいのですが(笑)
ついつい思い癖で、不安や疑念に溢れてしまう人は、
「この考えってなにか得になる??」
と思い返してほしいのです。

さて、今からあなたの的にこう書いてください。

「得」

今からは、この得と書かれた的に照準を合わせ、あなたの思考で射抜いてくださいね(笑)