生きていますと、大変なことが起きたり、ややこしい関係に悩んだりしますね。

それは自分で引き起こしたことだったり、私のせいじゃない!と思う場合があります。

どっちもまぁ同じなので(笑)
そのとき起こった問題のきっかけや見せ方が違うだけで、
そこから何かを感じないといけないことに変わりがありません。
だから「私のせいじゃない」とかにこだわってると、時間がもったいなく思います。

起きたことから学ぶテーマは、人それぞれ、いろいろあると思います。
もし、そのとき感情の起伏だけさせて、本題であるテーマを見つけられなかったり、クリアできなかったりすると、そのテーマを含んだ問題は、
わかるまで、やれるまで続きます。
いやですねー(笑)

天は人間があんまりわからないでいると、
「あれ?これでもわからないのかな?じゃわかるようにもう少しキツめな出来事をあげようかな?きっと喜ぶぞ!キャッキャッ笑」
って、出来事のキツさを高めてくれてると思うんですよ(笑)ホントに何してくれるのか…ということありますよね。

許せない相手が身内に現れたとき、これはかなりハードなことに見えます。
自分にとても似てる姿で、自分がどうしても許せないことを見せますから。
いてもたってもいられない気持ち。ザワザワしたりムカムカしたり感情が尖ります。
その感情に疲れたら、相手を人として見なくなり(存在をモノのようにして感情を閉ざす)無視するというやり方をする人もいます。

許せない人が会社の同僚や近所の人などにいるときは、存在している場所は近いけど、常に見ないでいられたり、自分とは違う姿なので、ちょっと安心していられますよね。
「私と違う」ことが救いになる感じでしょうか。
相手をダメな人と断じて、それ以上は考えないという場合があります。

さて、ブログの最初に大変なことが起きたとき、自分で引き起こしたことだったり、私のせいじゃない!と思っても、見せ方が違うだけで、同じだと伝えました。

身内か他人か。
これもそれに当てはまります。

どんな見せ方であっても、感じることから逃げたら、それはやるべきことの積み残しになります。
天は親切にも、コトをもっとハードにして同じテーマを与えます。

そして、起きたことから学ぶテーマはいろいろありそうに見えて、どんなことも結局は「許すこと」が芯にあるのだろうと私は思っています。

私たちは「自分を許すこと」を他人を使って経験している。
私はそんな世界に住んでいるのだろうなと思っています。

あなたも私もみんながお互いのためにいます。
鏡のようにその姿を見やすくしてるだけです。