講演会に行くと、お話の中で漢字の意味について教えてもらうことがとても多いです。

毎日こうして書いたり、人と話している言語ですが、
全く意識していない意味や、間違った意味で使っている漢字がたくさんあるようです。

漢字についての本を少し読んだのですが、
大昔にはこうしてあらゆる人が文字を書いたり読んだりできるわけではなかったので、漢字は特別な必要があり、組み立てられたようです。

その代表的な必要性は「神様への祈り」です。
大国を築くにあたり、神様と繋がり、神様と意思疎通をする祈りや占いはとても重要なまつりごとだったそうです。

昔の人々は当たり前のように、神様とともにあったのだなと思います。

きっと現代が異常なんでしょうね。
神様と無理やり引き剥がされてしまっています。
証明されることだけ信じろ!と教育を受け、それ以外はおかしなことを言う人として扱われます。

先日テレビで芸能人の方の祖先をたどっていくという番組を見ました。
その時出ていた歌手の母方のおばあちゃんは周りの人から「祈りやさん」と呼ばれていました。
その当時を知っている近所の方のお話はこうでした。
「むかしはどこでも、この村だって近くにお医者さんなんていなかったから、みんな体が悪くなったら、ここのおばあちゃんに祈ってもらって治してたんだよ」

もともと人の心にはいつも「祈り」が溢れていたんだろうと思うのです。

それからどんどん新しいものが発明されたり、便利な生活に変わりました。
けれど物質の進歩に合わせて、人の心がどれくらい現代仕様になったのでしょう?
無理やりねじったり、ちぎったり、見て見ぬ振りをしなければ、変化の猛スピードについていけないですよね。

そして、そんなことする必要ありますか?
どうして心を物質の進歩に合わせないといけないのか?

おそらく私たちには、ものすごく間違った「思い込み」が存在してる気がします。
そして、それは人から
「思い込まされた思い込み」
なのかなと思うと、ちょっと怖いです。

「こっちしかない」「間違いか、正しい考えかしか存在しない」
これって、人の考えじゃないですよね。
機械の考えだなぁと思います。

脳はどうしても「今この瞬間を心地よく過ごす」ために働きます。
意識して心を大切にしなければ、この体は知らない誰かに動かされている物質になります。
そして、知らないうちに誰かの思考を自分自身で考えたようにすり替えて、
これが正しいと思い込み、日々に追われて何も意識しない…
いったい、自分って誰のための誰なのか?

ちょっと怪談話みたいでしょ?

「祈りとは意識」なのではないかと思っています。
だから奪われているんじゃないのかなと思っています。