友人と話していると、よく言われるのは
「私はそこまで出来ない。」だ。
息子2人は学校へは行っていない。
2人とも義務教育期間だけどね。
子供を信じる、と言うことは難しいらしい。
自分の不安に自分が耐えられなくて、
ついつい、
手を出したり、口を出したりして、
親が率先して解決の糸口を探してしまうのだそう。
それもまぁ、わかるよ、うんうん。
ちなみに、不登校の彼らの普段は、
人生自由研究ラボでの活動に励んでいる。
↓自研LABOについては↓
人生自由研究ラボとは、意識上にのみ存在する架空の研究施設である。
我が家は基本、
子供達の事に関しては、
見守る、と言うスタンスだ。
(とは言え、ついつい無意識に子供の土俵に入り込んじゃってた、みたいなことは、ある。
その時は、気付けたら修正すればいい。)
見守ると言うのは、時に難しい。
つい、口出ししたくなる時もある。
なぜ口を出したくなるかと言うと、
信じてないから(笑)。
だから、見守る、は、信じてる、ってこと。
それが出来ないと、
「言いたいけど堪える」
と言う我慢をしないといけなくなる。
見守ると言うのは、信じてないと、ほぼ辛すぎて無理。
どっかで爆発する。
まぁ、一度や二度、誰にでもあるだろうな。
もっちのろん、私にも。
信じるってさ、
「この子は出来る、って信じる」とか解釈しがちだけど、
私にはちょっと違う。
それは希望的観測。
期待。
私の場合、
「出来ても出来なくても、この子は大丈夫。」
と言うのがいいなって思う。
「出来ても出来なくても、この子が大好きだ。」
と言うあり方を決める事。
究極、出来ようが出来まいが、
そんなもんどっちでもええわ、
愛しの子供達よ!
だ(笑)。
信じることと、結果は紐付けないし、
関係ない。
あくまで自分の「信じる」と言うそのスタンスそのもののことだけ。
なんだろう、試験で合格するって信じたい、
でも、
スベってたらどうしよう・・・・
みたいな感じだと、
ドラマティックだねって感じ。
どちらかと言うと願掛けに近い。
もうこれなら、いっそ自分(親)が受験しに行った方がいい、
みたいな(笑)。
そう言うどちらか都合の良い方だけを信じる、
あるいは信じたい、
ってのと違うくて。
例え合格しなくても、落ち込んでも、
また自分で歩き出す、
だから大丈夫、って信じてる、ってこと。
長男が幼稚園に通ってる時、
お迎えに行ったらさ、
園長(女性)が出て来て。
割と真剣に深刻な顔つきで。
「足跳びの遊びで、ケンケンパができないんです!!
グーパーが出来るようになったら、
次はケンケンパが大事なんで、
体操の先生と担任で付き添って指導致しましたが、
ご理解されてないようですので、
おうちでもお母さん、練習してあげてください。」
って言われた事がある。
その時、一瞬、
ケンケンパ大事なんだ・・・・
なのに出来ないのか・・・・我が子よ・・・・
ってひるみかかったけど。
手を繋いで、帰り道に。
え!!
ケンケンパができなくて死んだって話、
聞いたことねーけど!
それと、
体操の先生の仕事、
私にぶっ込んでくんの、やめて?!
と、思った次第(笑)。
別にケンケンパ出来なくても良いだろ!
問題あんのか!
更に、
ケンケンパの練習、家で一緒にやるとか、
ダリーだろ!
フツーに嫌い。めんどくさい。
やりたくなったら、やるわ、子供が勝手に。
ドンドンうるさいからやめろって言っても、やるわ(笑)。
と言う事だよね。
子供を信じる、って言うのは。
そんなに難しくないんじゃなかろうか。
連立方程式のがよっぽどむずい(笑)。
関数なんてったらもう(白目)。
ブクブクブクブク(泡吹き)。
そんな我が子も中1。
もうケンケンパになど興味がないと思われる。
minneで販売中。
どれも自信を持ってオススメ!
是非是非、お買い求め下さい!
読んでくれてありがとう。
Makico