若林強斎先生の言葉
若林強斎先生は江戸時代中期に活躍した神道家です。
自分の心は天津神から頂いた、神様と同じ心だと思うことが大切なことだぞ!と説いています。
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【若林強斎先生の言葉】
神道の大事は、吾が心を吾が心と思わず、
天神(あまつかみ)の賜(たまもの)じゃと思うが、
ここが大事ぞ、
そう思いなすではない、真実にそれ。
こういうことを寝ても冷めても 大事にするよりない。
これ程の宝物を頂戴しておりながら、
井戸茶碗程にも思わぬは、うろたへぞ。
三種の、瓊矛の、大事のと聞きたがらうより、
ここを合点するよりない。
ここにさえ合点あらば、相伝の筋も 窺われうこと。
実に神の尊いと云うことならば、 ここが忘れられ様がない。
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神道の極意は、
自分の心は自分のものでありながら、
同時に天つ神から賜った神与のものであるという自覚。
これが何よりも大切である。
それは頭で理屈で考えるものではない。
本当にそうで、体認の世界である。
つまり、自分のこの「いのち」が祖先の「いのち」に連なっており、
自分自身が神の道に生きている事実に気づくことである。
だから、自分の心が天つ神の賜物であることを寝ても覚めても大事にするより以外にない。
これ程の貴い宝物をすでに頂いておりながら、
その宝物を貴重な井戸茶碗のように思わないのは、どうしてよいかわからず慌てまごついているようだ。
三種の神器、瓊矛に関する神道の秘伝を聞くよりも、
自分の心が天つ神の賜物であることを承知する以外にない。
この一点が明らかになるならば、
自分の「いのち」が一身の生死を超えて天地永遠の「いのち」と一つになるから、
神代からの古伝承も分かるし、
本当に神道の尊いということが分かるので、
この1点を忘れてはならない。