日本のバブル時代ごろのフィリピン(1) | 過去の記憶タイ

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ちょうど、日本のバブル時代にフィリピンパブが大流行しました。

 

夜の街のあちこちに、フィリピンパブのネオンが見えました。

 

そんなフィリピンパブによく行きましたが、フィリピン人に興味を持ってフィリピンへも行ってみたくなりました。

 

当時はバブル時代なので、海外旅行へ行く日本人も多く、その割に成田空港は滑走路が1本でターミナルも1つだけで大混雑していました。(羽田は国内線専用だった)

 

また、当時は今のようにネットで予約などはできず、ABRoad という分厚い旅行雑誌の広告で旅行会社を探し予約をしていました。

 

料金も便数が少ないし、LCC もないので旅行代金は高く、マニラへのパッケージツアーが15万円とかしました。

 

やっとこさで、予約を取って JAL でマニラに到着しました。

 

 

黄色い車はタクシーですが、メーターはなく交渉制です。

もちろん、ボッタクリタクシーです。

 

当時のフィリピンはまだマルコス独裁政権だったか、まだマルコス政権が倒れた後くらいなので非常に貧しくて、車もあまり走っていません。

繁華街にはストリートチルドレンがあちこちにいました。

場所によっては、街路樹の下に簡易テントが張ってあって、家族で暮らしている人たちもいました。

 

カタカナの看板の前でポーズを取る男。

この当時は、アジア系外国人観光客は日本人がほとんどで、日本語の看板があちこちにありました。

たいていは夜の店か日本食の店で、夜の店は連れ出しが基本でした。

 

ホテル前の通り。

右側にホテルの看板 (Ambassador Hotel) が見えます。

この通りはマビニ通りと言って、1キロくらい北へ行くと夜の店 (ゴーゴーバー) が密集したエリアになります。

 

ホテルの部屋から見たマニラ。

高いビルが見える辺りの左側が夜の街ですが、ゴーゴーバーとかの一部は昼間も開いていました。

昼間でも治安が悪く、夜は怖くて歩いてすぐのところもボッタクリタクシーが必須でした。

写真には写っていませんが、公共交通機関は「ジプニー」のみです。

ジプニーも強盗に襲われることがたまにあるとか地元のフィリピン人が言ってました。

 

ホテル前辺り。

ほぼ都心なのに車が少ないです。

木造家屋が多くビルもあまりありません。

バーやレストランなどがたくさんありますが、右手にラーメン屋の赤い暖簾が見えています。

 

 

当時のマニラにはゴーゴーバーがたくさんあって、タイより近いため人気がありました。

しかし、マルコス政権が倒れ、民主化された後、新しい市長がゴーゴーバーを一掃してマニラからはゴーゴーバーがなくなってしまいました。

一部のゴーゴーバーは近隣の市(日本で言えば川崎や尼崎)へ移転して営業を続けましたが、ゴーゴーバーが密集した風景は見られなくなりました。