世の中には不可解なことって多々ありますよね。この小説はそんな「不可解なこと」をテーマにした小説と言っていいのではないでしょうか。

 

うらみわびの「この本がおもしろい!第15回

 

 

田口ランディ 著『コンセント』 幻冬舎 (2000)

 

 

 

 

勝手に評価表

ストーリー

☆☆☆☆

アクション

☆☆☆☆

感動

☆☆

 

あの日から自分がおかしい……

 

 どんな話?

 

 ある日突然、兄が腐敗した遺体となって見つかる。もともと精神異常だったが2か月前に家出をして一人暮らしを始めた兄。衰弱死に思われるが、その死に方が不可解だった。アパートに生活をした形跡がほとんどない。腐敗した兄は生きることを諦めたように横たわっていたように感じる。そしてコンセントが刺さったままの掃除機。

 兄の不可解な死を目の当たりにしてから、あらゆるところから死臭を感じるようになってしまった女性。性に溺れ、幻聴や幻覚をみるようにまでなる。自身の身体の異常に気付いた女性はすがる思いで、かつての大学の指導教員にカウンセリングを願い出る。

 

独特の世界観でその名を知らしめた田口ランディの小説処女作であり、3部作の第1作。

 

 3つのポイント

 

 本作で私が考えさせられたのは次の3つのポイントです

 

複数の自我について

 時々自分が分からないってとき、ありませんか。私はあります。そうでなくても寝ている時は「自分」はどこに行ってしまったんだろう、とかね。寝ている時の記憶は夢程度にしか残らないし、寝ている自分を自分で起こすことはできない。はたまた意識だけがどこかに行ってしまっている感覚に陥っちゃったりね。

 本書の主人公であるユキは兄を死を目撃してから自身の身体の異常に気付き、そこから「自分」というものが分からなくなっていきます。ゲシュタルト崩壊というと少し難しいような気がしますが、一種の混乱状態であるといえます。自分というものが分からなくなって、自分を取り巻く社会と言うものの存在、社会と自分との関係性も分からなくなってしまう。そこから主人公は元の自分を取り戻そう、変わろうとするのです。「でも、それでいいの?」と本書は問いかけているように感じます。

 

「死」とはなにか

 「死」というのも深遠なテーマですね。なにしろ私たちは「死」を経験したことがないし、経験者から経験談を聞くこともできない。なんとかして想像の域で「死」を捉えるしかないんですね。でも死者は語るというか、そういう捉え方もできます。本書の兄の死なんかはその意味で示唆的といえます。本書の死体処理の青年の話は興味深い。彼はこれまでユキが恐れていた兄を優しい兄ですね、と言う。その言葉が引っ掛かってかユキも兄の違う側面を見ていくようになる。

 幻覚や幽霊なんかがそうだけど、死者がこの世に現れて何かメッセージを残すのだとすれば、それを読み解きたくもなりますよね。

 

カウンセリングの限界

 突然ですが、精神病におけるカウンセリングって受けたほうがいいんですかね。受けたことのある人は大方「受けたほうがいい」と言います。仮にカウンセリングが効果のあるものだとして、それはカウンセラーがいるからいいのか、単なる自己の内面のアウトプットに意味があるのか、微妙なところです。まあ、結果としてクライアントが満足するならそれでよいのですが。傾聴という言葉を広げた現代カウンセリングの祖 カール・ロジャースはクライアントに重きを置いたカウンセリングを考案しました。つまりカウンセラーがなにか答えを提供するのではなく、クライアントがカウンセラーの助けを借りながら自らの悩みの心理を追求していく、という手法です。本書でもそのようなカウンセリングがされていました。要するに悩みの答えは自分の中にある、という考え方です。世界の見方の問題なのです。

 一方で、カウンセラーそのものの存在意義についても疑問を呈している場面があります。ユキの学友の律子は以下のように言っている。

 

「不思議だよね。死んだ人に関わる人々はなぜか優しい。それに比べて、生きている人間に係る人は、歪んでるよね。カウンセラーなんて仕事も生きている人間にかかわる仕事じゃない?みんな屈折していると思わない?」

 

本書ではカウンセラーが持つ心の支配欲について触れている。言葉巧みに他者の心を揺さぶる人々にたいする侮蔑の感想である。答えはクライアントがもっているのであるとすればなおさらである。

 一方で臨床医の山岸の話も興味深い。

 

「臨床の現場にいると、こんな時間のかかる無駄なことをやっていていいのかと思うよ。分裂病もうつ病も多重人格も治療に十年がかりだ。それでも治るという保証はない。治ったらそれで患者が幸せかという確証もない。だけど、俺はやっていく。他に方法を知らないからな。それに俺は分裂病の人間が好きなんだ。人格が乖離したり、分裂したりしている人間は優しい。すごくイノセントだ。心の組成が違うんや。OSが違うというべきか」

 

最後にOSという言葉で形容されているところがおもしろいね。これは本書を貫いている著者の考えともいえる。

 

 

 コンセントが意味するものとは

 

 ストーリーの序盤から頻繁にでてくるワード「コンセント」。この意味を推測しながら読まずにはいられない。でも、この言葉が何を意味するのかは初めのうちは分からなかった。

 強いていえば性の描写。これは私もかつて考えたことがある。性行為とはまるで「コンセントとプラグをつなぐ動作みたいだな」と。男と女が体をひとつにする行為。そこには日常にはない自分、本能に支配された自分を見出しているように感じたのだ。コンセントとはこのような非日常を現す語句なのだろうか。

 そもそも日常の自分と本能に支配された自分。どちらがより「自分」らしいのだろうか。もしかしたら日常の自分は他者からの目をかいくぐるための偽りの自分を演じているだけではないのだろうか。であるとすれば、私たちは普段は殻に閉じこもって生活をしていることになる。

 

 世の中の不可解なものに目を向けたときに考えられるのが一種の精神異常についてである。本作では分裂病が挙げられているが、分裂病って調べてみると症例によって結構細かく分類されているんだよね。要は「分裂病ってこういう病気です」って一言では言えない、ということ。つまり、病気というくくりで単純に考えるのは危険なんだと思う。

 

参考資料:http://www.fujimoto.or.jp/home-medicine/phychiatry/p_2/index.php

 

 

 

 一方で私たちはわけのわからない言動をしている人たちを見て、「あ、精神異常者だな」って思えばどこかで腑に落ちるところがある。でも、それってその人を十分に理解したことにはならないと私は思う。例えばこの小説で主人公のユキは死臭をかぎ分けてしまう、という症状に対して強迫性神経症という症例であるとして一旦は納得するのだけれども、それで症状が治まるはずもなく恩師にカウンセリングを依頼する。

 結局のところ、私たちにとって訳の分からないものはどこまでも分からないものなのかもしれない。でもこの本はその間を埋める答えを提示してくれるように感じたのです。

 

 先日、ブログで興味深い記事を読みました。今、私たちが「自分」そのものだと思っているこの体が実は仮の自分で、本当の自分は他のところから、あたかもRPGのゲームをプレイしているように、私たちを操作している、という考えです。先ほどの寝ている間の私の精神はどこにいるのか、という問いと合わせて考えると興味深いです。

 先ほどはOSという語句が出てきました。これも画期的な考えです。つまり、私たちの暮らす社会こそがネットワークであり、私たち一人一人はパソコンでありそのOS(オペレーション・ソフトウェア)である。ネットワークに私たちの記憶が蓄積されており、私たちはネットワークに接続することで情報を得るように社会の価値観を得たり、自己を形成している。OSが異なればパソコンの働き方が異なるように私たちの考え方も異なる。ネットワークに接続することを本書では「コンセントにつなぐ」と表現している。

 この形容からは人間が社会からあえて距離を置く、という自己防衛を「コンセントを抜く」と表現することで捉えなおそうとしている。ネットワークからの過重な負荷をシャットアウトする行為になぞらえる。これは的を得ているように私は感じる。

 本書ではこのように「コンセントを抜く」人たちを分裂病などの精神異常者とされる人たちに当てはめているようであるが、私はもう少し広く捉えてみてもいいように思う。それは社会におけるストレスに苦しむ人。自己肯定感の低さに苦しむ人、アダルトチルドレン、HSPなどなど。集団生活に苦しむ人々すべてが最終手段として取る行為が「コンセントを抜くこと」であると私は考える。

 しったがって「コンセントを抜くこと」は決して特別なことではなく、起こるべくして起こるのである。少なくとも私自身は前職を退職したときには「コンセントを抜いたんだな」と捉えている。自分では処理しきれないほどのストレスが一気に押し寄せる。体のブレーカーが落ちる。脳が思考を停止する。体における強制シャットダウンが行われるのである。

 

 

 波長を合わせるということ

 

 生きていると「この人苦手だな」という人、いますよね。つまるところ、波長が合わない、ということです。人はそれぞれ自らの価値観で世界を切り取っている。それが言動となって表面に出てくる。そして価値観は当人の経験に大きな影響を受けるわけですが、価値観が波長となって当人の言動を形作っているように思えます。

 人の言動に気づ尽きやすい人がいます。「繊細さん」なんて最近では呼ばれていますが、彼ら彼女らは波長に同調しやすい人である、と私は捉えます。大雑把に分けて波長にも正の波長と負の波長があるわけなのだけれども、繊細さんの多くは、どの種類の波長にも同調できちゃう。相手からすると「よく分かってくれる人」なわけです。でも繊細さんにも価値観があります。受け入れがたい波長があります。それでも息をするように波長を合わせてしまうので、自分ではどうすることもできないのです。本書でも確か「相手の感情が流れ込んでくる」という表現がなされていたと思います。まさにそれです。繊細さんは相手の負の波長に合わせちゃって、相手のうがった考え方が身体に入り込んでくる。嫌な考え、モノの見方。それに対する拒否反応。繊細さんはこのようなものと日々闘っているのです。

 

 繊細さんを喩えるなら感度の良いラジオでしょうか。でも人間は機械ではありません。もっと複雑で繊細な「」というものを持っています。だから難しいのです。本書では社会を大きなネットワークと捉えていますが、それはあくまでも仮想空間に過ぎません。人間の悩みはもっとリアルです。人間の数だけの悩みがあり、同じ数だけの解決法がきっとあるはずです。先ほどはカウンセラーの限界について触れましたが、人間を扱うことは病気を扱うよりも難しいのかもしれません。それは科学というよりも人間学という方が適切といえるのではないでしょうか。

 

 人間のリアルに目を向ける。自分の価値観の外の世界を知る。そのうえで本書は私の知らない精神の世界を見せてくれます。

 

 百聞は一読に如かず

 

 

 

 

 

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今日の一曲♪

『一触即発☆禅ガール』(2020)

(歌:高槻かなこ 作詞:れるりり 作曲:れるりり)

 

これを噛まずに歌うのは至難の業。

 

 

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