最近は熱かったり、寒かったりと気温のシーソーが続いておりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。まあ、気温が低い文にはお魚さんにとってはいいのですが(笑)
うらみわびの「この本がおもしろい!」第5回。今回は「死」がテーマです。 シェリーケーガン著 柴田裕之訳 "DEATH"(2018)を読む。
イェール大学で23年連続の人気講義を文章化!
死の本質を探り
私たちがどう生きるべきかを問う
勝手に評価表 |
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ストーリー |
☆☆☆☆☆ |
アクション |
☆ |
感動 |
☆ |
どんな本?
著者のシェリー・ケーガンさんは名門イェール大学の教授で、道徳哲学が専門の哲学者です。だからといってこの本がお堅い哲学の本というわけではありません。手に取ればわかりますが、370ページほどの重めの本で、内容も濃いので、そこそこの読書的体力は必要です。しかしこの本はイェール大学で生徒相手に実際に行われている講義を短くまとめたもので、「死」に関する哲学の入門書といえるでしょう。内容量も原書より縮小されています。もちろん、これまで哲学に興味がなかった人も自らの死に関心がある人は多いはず。人間だれしも死をまずがれることはできません。この本は哲学の専門家が長年かけて真剣に考えてきた、その思考を追体験し、私たちが「死」と的確に向き合うための素地を与えてくれます。ここで一度、自らの死を深く考えてみるのもよいでしょう。
ここに注目!
本書は大きく分けて2つのパートに分かれています。前半は「死」についての定義づけ。「死」とは何か。そして「死」に対して、これまでどのような議論がなされていたのか、について一つに凝らずに様々な視点から論を展開しているのがポイント。
後半は前半の「死」に関する定義を前提に私たちの「死」に対する向き合い方について考えていきます。ここでは実際に「今」をどう生きるべきなのか。そして「自殺」というテーマについても論じていきます。どちらも大勢の人が関心のあるテーマなのではないでしょうか。
私が感心したのは、本書が「死」に対して絶対的な「答え」を提示していない点です。これは、「死」がそれだけ深淵なテーマである、と考えることもできるでしょうし、著者があえて答えを棚上げしている、と捉えることもできるでしょう。最終的には私たち個人が考えるべきテーマなのです。「死」はどうしても考えることを敬遠してしまうテーマです。人と意見を交わす機会も少ないでしょう。ですから、この本から得るものは相当大きいと思います。
※前半の形而上学の講義のパートが入った、完訳版が発売されました。以下は完訳版です。
=======ここからはネタバレを含みます。読み進める際はご注意ください。==================
死をどう捉えるべきか
これは私たちを必ず待ち受ける最期、「死」について考えるにあたり、避けては通れないテーマだ。まずは相手を知らなければならない。
どうやら私たちは「死」に対して相当なマイナスのイメージをもっているものとうかがえる。それは後述する「自殺」ということに対して、私たちの多くがマイナスのイメージを持っていることからもうかがえる。逆に言えば、「生」というものに対して私たちの多くがプラスのイメージを持っているというべきだろうか。
本書においてシェリー先生は「死」に対する見方として、いくつかのパターンを示している。
<ニュートラルな器説(人生におけるその中身を吟味して、その良しあしを決める)>
- 楽観主義者:「人生は総じてプラスの価値がある」
- 悲観主義者:「人生は総じてマイナスの価値がある」
- 穏健派:「人によって人生が総じてプラスの人もいればマイナスの人もいる。また、人生のある時点においては、プラスともマイナスとも成り得る。
<価値ある器説(人生は生きているだけで価値がある)>
結論から言って、「死」に対する考え方は人それぞれであろう。大切なことは自分が「死」に対してどのような考えをもっているのかを客観的に把握すること。そして他の捉え方もある、ということを認識すること。そうすることで、自らのみならず、他者の死にたいしても適切な対応をとることができるだろう。
ところで、他者の「死」に対する適切な反応とはどのような反応なのだろうか。深く悲しみにくれることだろうか。潔くそれをうけいれることだろうか。おそらく、この問いに対する答えも割れることだろう。ただ、私が危惧しているのはこのような「死」に対して絶対的な「正解」を示そうとしている人たちが出てくる、ということである。例えば、家族の葬式で平然としている人を見つけて「悲しみはないのか」と怒る人がでてきたり・・・。
死生観に絶対はない。これは確実なように思える。したがって、他者の死に対しての反応も千者万別なのである。そして人によっては悲しみを心に押し込めて、それを表に出そうとしない人もいる。アウトプットの方法も人それぞれなのである。
私自身は穏健派であると自認している。人生は山あり谷ありだと思う。その中で人生は総じてプラスになると思っているし、そうなると信じている。また、それに伴い、自らの人生がプラスとなるような行動を意図的に選択している。「意図的に」というのも、私は自らを過小評価してしまう癖があるからである。うつ病を患ってからは、思うようにいかないことが増え、さらにそれがひどくなったように思う。
一方で、だからといって私は、自らの人生がマイナスである、というような悲観主義的な考えには至りたくない。これは単なる自己否定の拒否かもしれない。しかしながら、自らの人生の価値をあたかも元からそう決まっていたようにはしたくないのである。自らの選択次第で人生はいかようにもなる。私はそう信じている。
穏健派の人たちは人生のある一時点において、それまでに起きた良いことと悪いことを足し合わせ、その和がプラスになるかマイナスになるかにおいて人生の良しあしを考える。そしてこの計算結果によって最終的には自らの人生が生きるに値するか否かをみるのである。端的にいえば、生きるべきか、死ぬべきかをみる、のである。
この計算を用いる際に考えるべきことが二つあるように思える。一つ目は人生のどの点において考えるかによって計算結果が変わる、ということである。
この点に関しては、楽観主義者および悲観主義者であれば問題は起きない。はじめから自らの人生が総じてプラスもしくはマイナスであると知っているからである。しかし穏健派は人生の価値をその時々において計算しなければならない。
気を付けなければならないのは自殺を考えている時だ。たとえ、ある時点Aにおいて自らの人生を計算したとて、その結果がマイナスであったとしても、その人生が生きる価値のない人生であると断定できるだろうか。
もしかしたら、その後の人生のある時点Bにおいて、計算の結果がプラスになったとしたら、その時点は生きる価値のある人生といえる。
つまり、穏健派の原則に基づくならば、ある時点(例においてはA)において、たとえそれがマイナスの結果であったとしても、それが後のある時点(例の場合においてB)においてプラスになる可能性があるならば、Aの時点で自殺をする必要はないように考えられるのだ。
2つめの事項についても考えてみる。これはそもそも我々が人生のある時点において穏健派の原則に基づいて正確な計算が可能であるのか、ということである。これにはいくつかの事例が考えられる。
例えば、精神疾患がある人が自殺をしようとしている。彼は自分が穏健派の原則に基づいて自らの人生を計算し、その結果がマイナスになったので自殺する、と言っている。彼の言っていることは正しいだろうか。彼の強い願望を外に置き、あくまでの穏健派の原則に基づいて考えた場合、彼の自殺の決定は間違っている可能性がある。それは彼が精神疾患という、一種の錯乱状態に陥っているからである。これは精神疾患に限った話ではない。発狂という状態に表せられるように、人は時として舞い上がり、普段とは違う判断をしてしまうことがある。私自身経験があるが、その時は脳がオーバーヒートしたようで、とにかく考えがまとまらない。どうにかしたい、という欲求が自らを支配する。そのような時に自殺のような取り返しのつかない行動を正常に決断できるとは思えない。
一方で、精神が錯乱状態でない人も自殺の正常な判断ができないように感じる。それは穏健派の計算方法の原則によるものだ。
穏健派の計算方法は、人生のある時点において、それまでのあらゆる事象を全て足し、その総和がプラスかマイナスかをみる、というものだった。ここで「あらゆる」というところを強調したのは、その「あらゆる」の中身が一定ではないと考えているからだ。もし「あらゆる」が「全て」であったら、計算の結果はその時点においては常に一定だ。
しかし、私たちが人生の「全て」を考慮にいれることは不可能である。理由は2つある。1つ目は、私たちは人生の全てを記憶するほどの脳のキャパシティはなく、2つ目として、私たちの脳は人生において起きた「嫌なこと」を忘れるようにできているからである。
したがって、私たちは仕方なく人生の「あらゆる」事象を考えようとするわけであるが、その「あらゆる」の中身は実に恣意的に決まる、と私は考えている。
これは仕方のないことである。自分の人生の中身について、自分ほど記憶の項が多い人はいないからだ。したがって、人生の計算は自分で行うのが最も理にかなっている。
しかしながら、私たちはこの計算をするとき、とりわけ自殺を考えているときは結局のところ無意識のうちに自らが錯乱状態になっているからだ。計算に用いられる項はマイナスのものばかりで、よって総和がプラスになることはそうそうない。
以上のから、自殺について私たちは現在において正確な判断をすることはできず、未来においてもよい人生の可能性が否定できないため、自殺は適当である、とはいえない。
自殺は絶対悪か?
そこで、自殺はどんなときもしてはいけないのか、について考えていきたい。前述の論理で行くと、あくまでも穏健派の原則に基づけば、自殺はどんなときでも許容されないことになる。計算結果が正確性に欠け、総和がマイナスとなるケースが多いからだ。
しかし、このことに対して疑問をもつ人も多いのではないか。「本当に自殺はしてはいけないものなのか」と。ここで注意していただきたいのは、これから述べることは、あくまで自殺そのものが決して許されないものではない、という結論を導くことであり、決して自殺を勧めることではない、という点である。私はこの世の苦しむ人たちが真の意味において不本意な自殺をしてほしくない、と思っている。すべての人が幸せになる権利をもっている、と考えている。
「自殺は絶対にしてはいけない」と言う人は一定数いる。もしかしたらこちらが多数派かもしれない。このような考えを支える論として、本書では主に2つを上げている。1つ目は道徳論だ。これは、自殺は道徳的には許されない、ということを主張している。2つ目は義務論だ。こちらは、他者に迷惑をかけてはいけない、というのが主な主張だ。
私はどちらの論にも一理あるように思えるし、この論に乗っ取って生きるのは、それもよいことだと考える。しかし、私自身はこのどちらの論も絶対の正解ではない、と考える。正確にいえば、一人の人の人生に正解など存在しないのだ。したがって、その人が生きたいように生きるのが、ここでいうところの唯一の「正解」といえるだろう。
実際にところ、よほどの悲観論者でない限り、はじめから自らが命を絶ちたいと思う人はいないだろう。みんなはじめは生きたいのだ。しかし、そんな人でも死にたいと思うことがある。それは生きたいという気持ちを覆いかぶせるほどの苦しみを現に今、味わっているからだ。その苦しみは本人にしか分からない。本人にしか分からない痛みだからだ。これは虫に刺されるのとは次元が違う。誰がなんと言おうと、本人が死にたいほど苦しいのであれば、それは「死にたいほど苦しい」のだ。
一方で、この「死にたいほど苦しい」という気持ちは、苦しさが本人の思考を麻痺させている、と考える人もいるだろう。本書の著者のシェリー先生もこう述べている。
(自殺しようとする人に出会ったら) しつこいほど念には念を入れ、その人が苦悩に苛まれて振舞っているのであって、明晰に考えているわけではなく、情報の通じているわけでもなく、あまり有能なわけでもなく、それなりの理由があって行動しているのでもないに違いないと想定するべきだ。
私はこのような考え方に理解は示すが、反対である。確かにその時点では、適切な決断はできないかもしれない。しかし、時間をおいても本人の意思が固いのであれば、その自殺をとめることができる人はいないと思うし、早まって自殺してしまったとしても、その自殺があたかも「間違い」だった、というようなことはいえない、と思うのだ。
本書において、シェリー先生は自殺に対する適切な態度を探っているが、私には彼が唯一の正解を探しているように思える。前述したように、人生の処し方に正解も不正解もないと考える。したがって、「正解らしきもの」はあっても、「絶対の正解」は存在しない。これについてはシェリー先生もある程度は納得されているように思う。
(自殺をしようとすることを止めることは)自殺をけっして許可してはならないという強固な結論を受け容れることは同じではない。
この点は実際には安楽死の概念に結びつく。現在の日本では安楽死は認められていない。安楽死については活発な議論に期待している。そのためにも、我々一人ひとりがこの「死」について考えることが必要だと考える。
最後に
「死」は皆に訪れる。そして死は永遠の謎である。それは死は1度切りであり、現在生きている我々の誰も死を経験していないからだ。だからといって、私たちがこの「死」から目を背けるべきではないだろう。「死」は「生」と直結している。「死」は人生のゴールである。ゴールを見据えることでこれからの生き方も見えてくると思う。
今日の1曲♪
『いつか世界が変わるまで』 (歌:飯田里穂 作詞:佐高陵平 作曲:佐高陵平)(2018)
自分じゃなくて世界が変わらないといけないときもあると思うんですよね。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
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