祖母が韓流のDVD鑑賞にハマっています。レンタル店からレンタルしてみているので返さなくてはなりません。よく見ると祖母が毎回見終わっているDVDを最初まで巻き戻していました。ビデオテープの名残りです。あれってちゃんと巻き戻さないと見れないからね。[

「それは巻き戻さなくても大丈夫だよ」と伝えました。

 

私が小学生の頃くらいまでがビデオ世代だと思います。あの頃は情報の授業では、USBじゃなくてフロッピーが頻出単語。先日遊んだバイオ1なんてMOディスクですからね。時代を感じます。

 

 

 

うらみわびの「きょう考えたこと」第40回。

 

 

よいと思うことを褒めるのは意外と難しい

 

 他者を批評すること。これはごく自然な対応であると考えている。そして、どうやら他者を批評することは他者を褒めることよりも容易で自然なことのようだ。おそらく、私たちが他者を批評、判断するのは、相手がどんな相手か、とりわけどんな悪い要素があるか、を知ることで、その人が自分にとって害のある人かどうか判断している、と考えられる。限られた時間と環境の中で自分にとっての利益を出さなくてはならないのだから、これはごく自然なことだ。

 

 批評とはポジティブな面を探すものからネガティブな面を探すものまであるが、ここではネガティブな批評を扱うこととする。

 

 批評の裏にあるもの

 一方で社会的要請から他者を批評することと、プライベートで他者を批評することは分けて考えたほうがよさそうだ。プライベートでの他者の批評とは、本人のいないところでの悪口、ということと捉える。いわゆる影口だ。

 「影口はよくない」と言うことは簡単だが、それを言ってしまう心理、というものも存在するように感じる。おそらく、自分が当人に対して抱いている違和感。それを他者と共有することで、違和感が別段不自然ではないことに自身が納得し、安心を得ているのではないだろうか。だから、影口の共有という行為には一種の快感がついてまわるのではないだろうか。

 また、相手の悪い面を探すことで、自身が抱いているある種のコンプレックスを隠そうとしている、とも考えられる。少なくとも影口を言っている間は自分の弱点が議題に上がることはない。

 しかし、この行為の中で自身もうすうす気づいているはずである。誰にでも弱点がある、ということを。

 

 批評と幸福

 誰にでも弱点がある。これこそが人間の本質である、と考えている。だからこそ、人の弱点を見ることは大して意味がないのだ。また、そこから得られる幸福というのは一過性のものであり、過ぎたれば自らの弱点が気になり不安になる。むしろ逆効果だ。

 影口に意味がないのは、その行為自体が自身のもつ「常識」によってあぶりだされた他者の弱点の共有に過ぎないからである。いわゆる悪口の回覧板である。悪口を言うことで自身の気高さを強調しているようであるが、実は自分の辞書の中の言葉でしか人をみていない。そして悪口の聞き手も大して深く考えもせずに情報を共有しているのが実情だ。そこから何が得られようか

 

 完璧との和解

 私たちは意識的にでも他者の批評をする癖から脱却したほうがよい。むしろ自分を褒めたり、相手の良いところを探す努力をしたほうがよい。これは気力のいることであるが、意識的に行い習慣化することだ。もし、これが習慣化され、組織にその風土が広がれば、個々の強みを活かし弱点を補う、という理想的な組織に生まれ変わる、と私は考えている。

 もっと小さなレベルでの交友関係、対人関係でも同様である。もちろん直してほしいところを指摘するのも必要だが、よいところも見つけてあげて欲しい。

 

 私たちは完璧を求めようとしてしまう。それが成長であり、幸福への道だと信じているだろう。一方で、「こんなもんだろう」と欠点と和解するのも人生だ。私は後者の人生のほうが幸福度が高く、かつ万人に開かれた道である、と信じている。

 

 

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今日の一曲♪

『ムーンライト伝説』

(歌:DALI 作詞:小田佳奈子 作曲:小諸鉄矢)

 

「だって純情 どうしよう ハートは万華鏡」ってすごい歌詞ですね。

言葉の嗅覚が人並みではない! 

と思ったら小諸鉄矢さん!!

 

そういえばセーラームーンの劇場版が公開されるんでしたっけ?

 

 

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