空を眺めていた。
それはとても、とても、広い空だった。
どこまでも、青く、青く、そして青かった。
そして、だから、相変わらずため息をつく。
「なんで、空は広いんだ。こんなにも青いのに、青いってことはブルーってことだろう」
「なんだよ、それ?」
校舎の屋上。とっくに授業は始まっている。僕らの他には誰もいない。
「なんでもないさ、なんでもないくらい青いってことさ」
「お前、最近そんなことばっかり言っているな」
「ああ、最近はそんなことしか言っていない気がする」
タカシは、目を開けているのか開けていないのかわからないような顔をしている。
寝てはいないが、眠っているように見える。
目は空いていないが、何かがしっかりと見えているような顔をしている。
「お前さぁ、なんでここに居るの?」
言ってしまって、少し言い方が悪かったかと思い、言い直す。
「あぁ、つまり、授業に出ないでここで何しているかって質問で、邪魔だと思っているわけじゃないからな」
一瞬タカシが笑ったような気がしたが、本当に感情が表に出ない顔である。
「理由なんかないさ。空が広いように、空が青いように、俺はここに居るのさ」
「なんだよ、それ?」
沈黙、トンビが上空で旋回しながら鳴き声を上げる。それを合図にどちらともなく声に出して笑いだす。
ほぼ同時だと思ったが、タカシは笑いながら言った。
「真似するなよ、リョウジ」
「お前こそ」
タカシが上半身を起こす。収まりの悪い前髪を整えながら、屋上のフェンスを眺めながらつぶやいた。
「空がどんなに広くて青くても、この檻の中にいたんじゃ、何の意味もないな」
「嫌なら飛び出せばいい。そのくらいの自由は俺たちにだってあるさ」
「自由ね。自由っていったいなんだろうな」
「ままならないもの」
俺は即答した。
「そうだな。俺たちにとって自由っていうのは、ままならないものだ。上を見上げればどこまでも広大な空があるっていうのに、横を見ればフェンスで囲まれている」
リョウジはいつになく饒舌だ。
「校舎から出ても、やっぱりそこにはフェンスがある。門は限られた時間にしか空いていない」
俺も、今日はしゃべり過ぎだと思った。
「なんなんだろうな、俺たち」
「なんなんだかなぁ、俺たち」
再び沈黙が訪れる。
そのとき俺はこんなことを考えていた。
両親がいて、学校があって、友達がいる。友達というか知り合いか。いいやつもいれば嫌な奴もいる。面白い奴もいれば、何を考えているのか、さっぱりわからない連中もいる。誰もが、誰かにとってそういう存在なのだ。
しかし、自分が本当は何者なのか、誰もわかっちゃいない。
「なぁ、俺たちはあれか? 学友か? トモダチか? 気の合う仲間?」
「親友じゃないことは確かだな」
「親友なんて見たことないな」
「ああ、どんなものだか、一度は見てみたいけど、思うに恐ろしく恥ずかしいものに違いない」
「なるほど。それは一理あるな。俺は一生親友にはなれないし、親友には出会えないかもしれないな」
不意にリョウジの存在が消えた。どこか遠いところに思いをはせ、その思いの強さが奇跡を起こしたかのように、どうしようもなく、存在感を希薄にした。
「なぁ、リョウジ」
「うん?」
「お前さぁ」
「ああ」
「本当は俺のこと、親友とか思ってないか?」
「まさか」
「そうか」
「ああ」
「ならいいんだ」
三度沈黙
「あのさぁ」
二人の声が重なる。
それは、とても、とても、恥ずかしいことだった。あまりの恥ずかしさに顔から火が噴いたかと思った。
しかし、おそらくは俺以上にリョウジの顔が真っ赤になっていたことに驚いた。相変わらず目は空いているのかどうかわからない切れ長の、細い目をしている。
俺はリョウジの細い目に、どう映っていたのだろうか。
考えるだけでも恥ずかしい。
空は広く、広く、そしてどこまでも青い。
ただ、広くて、青い。
それがわかる。解り合えるというのは、なんとも恥ずかしい。
今ならリョウジが何を考えているのか手に取るように、自分のことのようにわかる。
もう一度、頭の上を旋回しているトンビが鳴くのを待っているに違いない。
空は広く、広く、そしてどこまでも青い。
ただ、広くて、青い。
その少年と出会ったのは、小雨の降る夕方の公園だった。
「ボク、ひとりかい?」
そう声をかけるまでの間、私はタバコを1本吸い、自動販売機で缶コーヒーを買って飲み干し、もう一本タバコに火をつけ、パンパンになった携帯灰皿に吸殻を押し込んでからのことだった。
「うん」
6月。長梅雨の真っ只中。天気予報を見る気にもなれない。
「こんな雨の中で、何をしてるんだい?」
小学校に上がったかあがっていないかくらいの男の子は、水色の長靴に黄色の傘を差し、おもちゃのバケツとスコップを持って、公園を囲む植え込みに小さな穴を掘っていた。
「お墓を作っているの」
よく見るとバケツの中には一匹の金魚の亡骸が横たわっている。大人の小指ほどの大きさのそれは、お祭りの金魚すくいで見かけるいわゆる金魚だった。
「そうか。えらいんだな。ボクは」
私は、その言葉を考えなしに、口にした。
「ボク、ちっともえらくなんかないよ」
私は戸惑った。
「どうしてだい? こんな雨の中、ひとりで金魚さんお墓を作ってあげるなんて、えらいじゃないか」
少年は穴を掘る手を止めて、私に向き直った。
「だって、ボク、金魚さんを殺しちゃったんだよ」
「殺しちゃったって、ボクがかい?」
「うん、ボクが悪いんだ」
私はかがみこんで、少年の顔を覗き込んだ。
「そうか。じゃぁ、ちゃんとお祈りして、金魚さんにゴメンネをしないといけないね」
「うん」
少年は再びおもちゃのスコップで穴を掘り始めた。
「ねぇ、おじさん、死んじゃった金魚さんに謝ったら、ちゃんと金魚さんに聞こえるのかなぁ」
「それは、おじさんにもわからないなぁ。聞こえるのかもしれないし、聞こえないのかもしれない。でも、それはどうでもいいことなんだよ」
「ふーん。そうなんだ」
少年は不思議そうな顔をしたが、バケツの中の金魚の亡骸をそっと手に取り、話しかけた。
「ごめんよ。金魚さん。ボクは知らなかったんだ。金魚さんはお外に出たら死んじゃうってこと」
「そうだな。お魚は水の中でしか生きられないんだ。人が水の中で生きられないように」
「でも、僕の絵本の金魚さんは外に出て、かくれんぼしてたんだよ」
「そうか。でも、ボク、絵本の中の金魚さんは絵本の中でしか生きられないんだ」
少年はこくりと小さくうなずいた。
少年は金魚をそっと掘った穴に置き、土を元に戻していった。
「ボクはえらいな」
「どうしてさ、ボクはちっともえらくなんかないよ」
「ちゃんと謝れるってことは、なかなかできないことなんだよ」
「だってぇ、ちゃんとごめんなさいをしないとパパやママにしかられるもの」
「そうだな。じゃぁ、家に帰ったらもう一回ちゃんとごめんなさいっていえるかな」
「うん」
少年は晴れやかな顔で返事をした。一瞬雨が弱まった気がした。
私は少年の頭をなで、その場を離れた。
公園の出入り口で足を止め、後ろを振り返る。
そこに少年の姿は、もうなかった。
「ごめんなさいかぁ」
私はタバコに手をかけて、それをやめて式場に向かった。
母の通夜の準備をしなければいけない。
逝ってしまった母に、私の声が届くかどうかわからない。
私がこの世に生を受けてから、ずっと母はいたというのに、とうとう言うことができなかった。
「ごめんよ。母さん」
再び雨は強く地面を叩き始めた。
しかしその音は、私の心にやさしく響く。
あの少年の金魚の魂が、この雨空を登って私の思いを母に届けてくる。
そんな考えがふと、頭の中をよぎった。
「あの少年は、ちゃんとお母さんにごめんなさいを言えただろうか」
私は少しだけ、あの少年のことをうらやましく思っていた。
「ボク、ひとりかい?」
そう声をかけるまでの間、私はタバコを1本吸い、自動販売機で缶コーヒーを買って飲み干し、もう一本タバコに火をつけ、パンパンになった携帯灰皿に吸殻を押し込んでからのことだった。
「うん」
6月。長梅雨の真っ只中。天気予報を見る気にもなれない。
「こんな雨の中で、何をしてるんだい?」
小学校に上がったかあがっていないかくらいの男の子は、水色の長靴に黄色の傘を差し、おもちゃのバケツとスコップを持って、公園を囲む植え込みに小さな穴を掘っていた。
「お墓を作っているの」
よく見るとバケツの中には一匹の金魚の亡骸が横たわっている。大人の小指ほどの大きさのそれは、お祭りの金魚すくいで見かけるいわゆる金魚だった。
「そうか。えらいんだな。ボクは」
私は、その言葉を考えなしに、口にした。
「ボク、ちっともえらくなんかないよ」
私は戸惑った。
「どうしてだい? こんな雨の中、ひとりで金魚さんお墓を作ってあげるなんて、えらいじゃないか」
少年は穴を掘る手を止めて、私に向き直った。
「だって、ボク、金魚さんを殺しちゃったんだよ」
「殺しちゃったって、ボクがかい?」
「うん、ボクが悪いんだ」
私はかがみこんで、少年の顔を覗き込んだ。
「そうか。じゃぁ、ちゃんとお祈りして、金魚さんにゴメンネをしないといけないね」
「うん」
少年は再びおもちゃのスコップで穴を掘り始めた。
「ねぇ、おじさん、死んじゃった金魚さんに謝ったら、ちゃんと金魚さんに聞こえるのかなぁ」
「それは、おじさんにもわからないなぁ。聞こえるのかもしれないし、聞こえないのかもしれない。でも、それはどうでもいいことなんだよ」
「ふーん。そうなんだ」
少年は不思議そうな顔をしたが、バケツの中の金魚の亡骸をそっと手に取り、話しかけた。
「ごめんよ。金魚さん。ボクは知らなかったんだ。金魚さんはお外に出たら死んじゃうってこと」
「そうだな。お魚は水の中でしか生きられないんだ。人が水の中で生きられないように」
「でも、僕の絵本の金魚さんは外に出て、かくれんぼしてたんだよ」
「そうか。でも、ボク、絵本の中の金魚さんは絵本の中でしか生きられないんだ」
少年はこくりと小さくうなずいた。
少年は金魚をそっと掘った穴に置き、土を元に戻していった。
「ボクはえらいな」
「どうしてさ、ボクはちっともえらくなんかないよ」
「ちゃんと謝れるってことは、なかなかできないことなんだよ」
「だってぇ、ちゃんとごめんなさいをしないとパパやママにしかられるもの」
「そうだな。じゃぁ、家に帰ったらもう一回ちゃんとごめんなさいっていえるかな」
「うん」
少年は晴れやかな顔で返事をした。一瞬雨が弱まった気がした。
私は少年の頭をなで、その場を離れた。
公園の出入り口で足を止め、後ろを振り返る。
そこに少年の姿は、もうなかった。
「ごめんなさいかぁ」
私はタバコに手をかけて、それをやめて式場に向かった。
母の通夜の準備をしなければいけない。
逝ってしまった母に、私の声が届くかどうかわからない。
私がこの世に生を受けてから、ずっと母はいたというのに、とうとう言うことができなかった。
「ごめんよ。母さん」
再び雨は強く地面を叩き始めた。
しかしその音は、私の心にやさしく響く。
あの少年の金魚の魂が、この雨空を登って私の思いを母に届けてくる。
そんな考えがふと、頭の中をよぎった。
「あの少年は、ちゃんとお母さんにごめんなさいを言えただろうか」
私は少しだけ、あの少年のことをうらやましく思っていた。
その日の朝、玄関を開けると雨が降っていた。地面はぬれ、水たまりに小さな波紋が浮き上がる。
「あれ? 雨だ」
雨は降っているが外は明るい。厚い雲に覆われた憂鬱な雨ではない。
「すぐに、やむだろうか」
しかし、そのまま出かけようとは思えない雨だ。今は2月。東京が一番寒い時期である。
子供たちが出かけた後の玄関はがらんとしている。
8時には近所の子供たちが迎えに来る。
私が仕事に出かけるのは9時を回ってからだ。玄関には私の靴と妻の靴が置いてある。
妻は私のさらに30分後に家を出る。
傘置きはない。
下駄箱に並べて置いてある収納ケース。そこには電池や工具、玄関マットの替えやガムテープがしまってある。その天板の出っ張りにビニール傘が数本と私が普段使っているコンビニで買った1000円ほどの黒い傘がひっかけてある。私はビニール傘を手にした。
「こんな日は、傘を忘れそうだからな」
風はない。雨はまっすぐ上から下に落ちてくる。
非常に小さな粒で、遠くの空を見ると雨が降っているように見えない。
足元の水たまりを見なければ、雨が降っているとは気づかないほどである。
しかし、ごく近くに焦点を合わせると、雨は確かに降っている。
傘なしでは、いささか心もとないと思えるほど、しっかりと雨は降っていた。
少し錆が目立つようになった玄関のドアは、「ギーィー、バタン」と、それらしい音を立てて閉まる。
いつも油をささなきゃと思うのだが、家に帰るころにはすっかり忘れてしまう。
不思議と夜は気にならないのだ。
「いってきます」
それは決して妻に向けて言う言葉ではない。
私の家、私の住家を出るときのまじないみたいなものだ。
『いってきます』と『ただいま』は対になる呪文のようなもので、どちらを忘れてもいけない。
そんなふうに私は思って日々を生きている。
一週間のうち、3日は決まった時間に家を出る。
それは不定期に仕事の都合で決まる。
事務所までは歩いて15分ほどのところである。
昔から通勤列車は好きではなかった。
だから、いつも歩いて通えるところに引っ越している。
借家暮らしである。
住宅街から駅前を通りぬけ、オフィス街に出る。メインストリートを歩いても裏道を歩いても大差はない。
しかし、なるべく車や自転車の通りの少ないところ、そして信号を気にしないで道を渡れるところを通る。
行きと帰りでは道を変える。
天気によっても道を変える。
それは些細なこだわり、或いは習慣なのか、習性なのか、人には説明しづらい。
建物を出て最初の十字路は、自転車がすごい勢いで急に曲がってきたりする。
雨の日はときに危ない。
傘をさしながら自転車を乗るというのは、私にはどうにも信じられないのだが、そういう人は、おそらく『運のいい人たち』なのだろう。
事故に会わない、いや、事故を起こさないのが不思議である。
私は十字路をまっすぐに……、いや、ここは正確にはT路地であることを私もついつい失念してしまう。
まっすぐいくとそこはマンションの駐車場を抜けていくことになる。
私有地であり、元来他人が通行していい場所ではない。
だが、しかし、私はここを通りたいのだ。
ここを通り抜け、左に曲がって横断歩道を渡る。
しかしできれば横断歩道の手前の道路を斜めに横断したい。
ほんのわずかなショートカットだが、私はそれがしたいのだ。
右、左と、目くばせをする。右からは車が、左からは自転車が飛び込んでくることが多い。
「大丈夫、オールクリア……」
右側から人が歩いてくる。
いや、別に右側だけではない。
後ろからも左からも人は歩いてくる。
傘をさし、身をかがめながら歩いている。
寒いのだから当然である。
しかし、右から現れた人影――、その女性は、傘をさしてはいなかった。
傘をささず、上向き加減で歩いている。
いや、決して上を見ているのではない。みんなが下向き加減だから、まっすぐ前を向いて歩く彼女は上向き加減に見えてしまう。
「彼女はなんで、傘を持っていないのだろう」
そう思う間に、私と彼女は背中で交差し、彼女はまっすぐ歩き、私もまっすぐ歩いた。
20代。おそらく25才から30才の間。帽子をかぶっている。カーキ色のふわっとした感じの帽子だ。
私はそれをなんと呼ぶのか知らない。
上着はコートと呼んでいいのか、ジャケットと呼んでいいのか、私にはわからない。
全体的な印象は落ち着いた色遣いで、かわいらしくもあり、行動的な感じでもある。
雨が降っている。
決して無視できるような雨ではない。
遠くの空を見れば、雨が降っていることを気づかないような、そんな空である。
しかし、ビニール傘に目をやれば、雨粒はしっかりと音を立て、しずくとなってぽたぽたと落ちてくる。
「彼女は、なぜ、傘をさしていないのだろう」
彼女はおそらく駅に向かっている。私は当初の予定通り、まっすぐ駐車場を抜けて、左斜めに横断歩道の手前で道路を渡りきった。傘を持たない彼女は私にやや遅れて、その横断歩道に差し掛かっていた。ここを渡り、左にまっすぐ行けば駅である。
「家から出てきたのなら、傘を持って出るだろう。友達の家から朝帰りでも、やはり、そうだろう。傘くらい借りれるはずだ」
私は何かに取り付かれたかのように、彼女が、傘を、ささないわけを、考え始めた。
「それに、傘がないのなら、横断歩道の手前のコンビニで買えばいい。それもしないのか……」
下衆な勘繰りを始める。
「男か……。男の部屋から朝帰り。しかし、ビニール傘の一本や二本あるだろうに」
高架線を超え、オフィス街に入る。
「徹夜明けの仕事帰り、恋人の部屋からの帰り、女子会の帰り、どれもしっくりこないなぁ」
いつもの自動販売機で缶コーヒーを買う。100円だ。しかし、小銭を持っていないときは立ち寄らない。
「彼女は、なぜ、傘を持って出なかったのか」
郵便局の前には自転車が何台も止めてある。今日は10日か。
「彼女は……きっと、雨が好きなのか」
私にはわからない。彼女の服装は『雨に濡れてもいい』ようにはみえなかった。
「いや、彼女はきっと、傘がきらいなのか」
公園を突っ切る。晴れた日なら広場を斜めに通り抜けるが、雨の日には靴が汚れる。舗装された道を使うと、ショートカットにはならないが、それでも車や自転車を気にしなくていい。
「いや、彼女はもしかしたら、とても気に入っている傘があるのかもしれないな」
片側3車線のメインストリートを渡り、事務所の前に着く。雨は激しくもならず、弱くもならず、風もない。
「このくらいなら、駅まで歩いても対して濡れないか。大きめの帽子だったから、髪の毛が濡れることもないだろう」
エレベーターの前でビニール傘をたたみ、雨水を振り払う。
「でも、やっぱり結構な雨だよなぁ」
エレベーターの扉が開く。タバコのにおいがする。傘の先から雨水が滴り、小さな水たまりができる。
「彼女は、なぜ、傘を持たず、傘をささず、雨に濡れ、そしてどこから来て、どこへ行ったのだろうか」
その日、雨は、昼過ぎには上がった。
「あれ? 雨だ」
雨は降っているが外は明るい。厚い雲に覆われた憂鬱な雨ではない。
「すぐに、やむだろうか」
しかし、そのまま出かけようとは思えない雨だ。今は2月。東京が一番寒い時期である。
子供たちが出かけた後の玄関はがらんとしている。
8時には近所の子供たちが迎えに来る。
私が仕事に出かけるのは9時を回ってからだ。玄関には私の靴と妻の靴が置いてある。
妻は私のさらに30分後に家を出る。
傘置きはない。
下駄箱に並べて置いてある収納ケース。そこには電池や工具、玄関マットの替えやガムテープがしまってある。その天板の出っ張りにビニール傘が数本と私が普段使っているコンビニで買った1000円ほどの黒い傘がひっかけてある。私はビニール傘を手にした。
「こんな日は、傘を忘れそうだからな」
風はない。雨はまっすぐ上から下に落ちてくる。
非常に小さな粒で、遠くの空を見ると雨が降っているように見えない。
足元の水たまりを見なければ、雨が降っているとは気づかないほどである。
しかし、ごく近くに焦点を合わせると、雨は確かに降っている。
傘なしでは、いささか心もとないと思えるほど、しっかりと雨は降っていた。
少し錆が目立つようになった玄関のドアは、「ギーィー、バタン」と、それらしい音を立てて閉まる。
いつも油をささなきゃと思うのだが、家に帰るころにはすっかり忘れてしまう。
不思議と夜は気にならないのだ。
「いってきます」
それは決して妻に向けて言う言葉ではない。
私の家、私の住家を出るときのまじないみたいなものだ。
『いってきます』と『ただいま』は対になる呪文のようなもので、どちらを忘れてもいけない。
そんなふうに私は思って日々を生きている。
一週間のうち、3日は決まった時間に家を出る。
それは不定期に仕事の都合で決まる。
事務所までは歩いて15分ほどのところである。
昔から通勤列車は好きではなかった。
だから、いつも歩いて通えるところに引っ越している。
借家暮らしである。
住宅街から駅前を通りぬけ、オフィス街に出る。メインストリートを歩いても裏道を歩いても大差はない。
しかし、なるべく車や自転車の通りの少ないところ、そして信号を気にしないで道を渡れるところを通る。
行きと帰りでは道を変える。
天気によっても道を変える。
それは些細なこだわり、或いは習慣なのか、習性なのか、人には説明しづらい。
建物を出て最初の十字路は、自転車がすごい勢いで急に曲がってきたりする。
雨の日はときに危ない。
傘をさしながら自転車を乗るというのは、私にはどうにも信じられないのだが、そういう人は、おそらく『運のいい人たち』なのだろう。
事故に会わない、いや、事故を起こさないのが不思議である。
私は十字路をまっすぐに……、いや、ここは正確にはT路地であることを私もついつい失念してしまう。
まっすぐいくとそこはマンションの駐車場を抜けていくことになる。
私有地であり、元来他人が通行していい場所ではない。
だが、しかし、私はここを通りたいのだ。
ここを通り抜け、左に曲がって横断歩道を渡る。
しかしできれば横断歩道の手前の道路を斜めに横断したい。
ほんのわずかなショートカットだが、私はそれがしたいのだ。
右、左と、目くばせをする。右からは車が、左からは自転車が飛び込んでくることが多い。
「大丈夫、オールクリア……」
右側から人が歩いてくる。
いや、別に右側だけではない。
後ろからも左からも人は歩いてくる。
傘をさし、身をかがめながら歩いている。
寒いのだから当然である。
しかし、右から現れた人影――、その女性は、傘をさしてはいなかった。
傘をささず、上向き加減で歩いている。
いや、決して上を見ているのではない。みんなが下向き加減だから、まっすぐ前を向いて歩く彼女は上向き加減に見えてしまう。
「彼女はなんで、傘を持っていないのだろう」
そう思う間に、私と彼女は背中で交差し、彼女はまっすぐ歩き、私もまっすぐ歩いた。
20代。おそらく25才から30才の間。帽子をかぶっている。カーキ色のふわっとした感じの帽子だ。
私はそれをなんと呼ぶのか知らない。
上着はコートと呼んでいいのか、ジャケットと呼んでいいのか、私にはわからない。
全体的な印象は落ち着いた色遣いで、かわいらしくもあり、行動的な感じでもある。
雨が降っている。
決して無視できるような雨ではない。
遠くの空を見れば、雨が降っていることを気づかないような、そんな空である。
しかし、ビニール傘に目をやれば、雨粒はしっかりと音を立て、しずくとなってぽたぽたと落ちてくる。
「彼女は、なぜ、傘をさしていないのだろう」
彼女はおそらく駅に向かっている。私は当初の予定通り、まっすぐ駐車場を抜けて、左斜めに横断歩道の手前で道路を渡りきった。傘を持たない彼女は私にやや遅れて、その横断歩道に差し掛かっていた。ここを渡り、左にまっすぐ行けば駅である。
「家から出てきたのなら、傘を持って出るだろう。友達の家から朝帰りでも、やはり、そうだろう。傘くらい借りれるはずだ」
私は何かに取り付かれたかのように、彼女が、傘を、ささないわけを、考え始めた。
「それに、傘がないのなら、横断歩道の手前のコンビニで買えばいい。それもしないのか……」
下衆な勘繰りを始める。
「男か……。男の部屋から朝帰り。しかし、ビニール傘の一本や二本あるだろうに」
高架線を超え、オフィス街に入る。
「徹夜明けの仕事帰り、恋人の部屋からの帰り、女子会の帰り、どれもしっくりこないなぁ」
いつもの自動販売機で缶コーヒーを買う。100円だ。しかし、小銭を持っていないときは立ち寄らない。
「彼女は、なぜ、傘を持って出なかったのか」
郵便局の前には自転車が何台も止めてある。今日は10日か。
「彼女は……きっと、雨が好きなのか」
私にはわからない。彼女の服装は『雨に濡れてもいい』ようにはみえなかった。
「いや、彼女はきっと、傘がきらいなのか」
公園を突っ切る。晴れた日なら広場を斜めに通り抜けるが、雨の日には靴が汚れる。舗装された道を使うと、ショートカットにはならないが、それでも車や自転車を気にしなくていい。
「いや、彼女はもしかしたら、とても気に入っている傘があるのかもしれないな」
片側3車線のメインストリートを渡り、事務所の前に着く。雨は激しくもならず、弱くもならず、風もない。
「このくらいなら、駅まで歩いても対して濡れないか。大きめの帽子だったから、髪の毛が濡れることもないだろう」
エレベーターの前でビニール傘をたたみ、雨水を振り払う。
「でも、やっぱり結構な雨だよなぁ」
エレベーターの扉が開く。タバコのにおいがする。傘の先から雨水が滴り、小さな水たまりができる。
「彼女は、なぜ、傘を持たず、傘をささず、雨に濡れ、そしてどこから来て、どこへ行ったのだろうか」
その日、雨は、昼過ぎには上がった。
こちらも音声劇団五里夢中 http://beinadream.web.fc2.com/ さんが、ラジオドラマ化してくれた作品です!
僕の書いた短編会話劇『自縄自縛』を音声劇団五里夢中 http://beinadream.web.fc2.com/
さんが、ラジオドラマにしてくれました!
本当にありがたい!
さんが、ラジオドラマにしてくれました!
本当にありがたい!