私、めけめけと家族及び、親族すべて無事でございます
帰宅難民になりましたが、無事家に着きましたことをご報告すると共に、ここで知り合った方々の安否を案じております
ご無事をお祈りすると共に、この地震で亡くなられた方、ご身内を亡くされた方に心よりご冥福をお祈りします
キム・ビアンカ+向谷実
今年のさくらはこれで決まり!
そしてこの曲がアンサーソング
キム・ビアンカで「愛~さくら」です!
最後に「さくら」の向谷倶楽部×キムビアンカ ヴァージョン
中西圭三さんのコーラスが最高です
今年のさくらはこれで決まり!
そしてこの曲がアンサーソング
キム・ビアンカで「愛~さくら」です!
最後に「さくら」の向谷倶楽部×キムビアンカ ヴァージョン
中西圭三さんのコーラスが最高です
この曲の歌詞に
「もう 電話も しない」
というフレーズがあります
歌詞をそのまま受け止めれば、愛しい人に
心じゃなくて、身体だけ、顔だけ、細い足だけと
愛していない、もう 電話もしない
と歌い上げています
すべて一人称で語られるこの歌詞をそのまま受け止めれば、別れた相手に自分の心は
少しも痛んでいない
と歌っています
胸の痛みは思いのせいじゃない
さて、どうなんでしょうね
ワタシにはとてもとてもせつない思いが伝わってきます
この電話って、はたして、世代によっては、携帯電話だったり、独り暮らしの部屋の電話機でFAXがついているかもしれない あるいは家の電話で、自分の部屋の子機かもしれない
ワタシの世代では恋愛と電話であれば、公園の公衆電話
テレフォンカード
あるいは黒電話になりますかね
人それぞれ歌から思い出す風景や景色が違っても
きっとせつない気持ちは一緒じゃないですかね
電話もしない
アドレス帳をから電話番号を消すのかもしれない
携帯のアドレスを削除するのかもしれない
そして、思い出の品を焼き捨てるのかもしれない
みなさんはどんな情景を思い浮かべるでしょうか?
山作戦 公式ホームページ
弾き語りライブ「ぼくなまはげ」
*毎週木曜 22時~
つくづく思うのだが、自分は本を読むのが苦手である
時間がかかる
根気が続かない
そしてそんな自分がすんなり読める本には特徴がある
スティーブン・キングにしろ夢枕獏にしても、どこか癖がある
吉本ばななといえば、時代は80年代後半、世の中はすっかりバブルに突入した頃
ワタシにとっては、『流行りもの』にしか思えなかったし、好意的には見ていなかった。
どうせみんな、流行で読んでいるんだろう
思い返せば、自分がキングに出会って短編の「霧」(映画『MIST』の原作)を読んだ頃である
あまりにも世界が違うように思える
自分で物語を書くようになって、少しばかり、他人の本を読もうという気になった
ワタシは本を読む事が、たぶん嫌いなのだ
それでいて、一度はまると、その作者にぐいぐいと引き寄せられてしまい、場合によってはそれで嫌いになってしまうこともある。
さてさて、本題
本当に、今、読んで、良かったと思う
『キッチン』には3作が収められており、タイトルの『キッチン』『満月――キッチン2』『ムーンライト・シャドウ』でこの3つの作品に共通しているのは、耐え難い『身内の死』とそれを克服してゆく主人公 ということだ
ワタシ自身、大きな消失感を伴う身内の死を経験した事がない
父方の祖父、母方の祖父、よく面倒を見てもらったやさしい親戚、飼っていたネコ……
或いは、同級生の自殺や事故死
それでも、心が激しくダメージを受けるような死には、まだ出会っていない
物語において、死を扱うとき、ワタシは時々困ることがある
それは現実の人の死よりも、物語で読んだり聞いたりした架空の死、或いは伝記のほうが、はるかに死の悲しみを感じ、死に対する現実感が希薄なことである
この作品で描かれている死とは、ドキュメンタリーのような生々しいものでもなく、また物語のように劇的でもなく、淡々と登場人物の前に突きつけられた『死』という事実、等身大の凶事である
理路整然と悲しみの回路が働く姿は、どちらかといえばほとんど描かれていない
そこにあるのは、身内の死という凶事を前にして、それを克服しようとする 意地らしいほどの登場人物の不器用で、滑稽で、純粋な生き様
う~ん、どうもワタシの力では、このあたりが表現の限界のようだけど、要は読んでいて、ことごとく、いい感じに期待を裏切る登場人物の行動は、とてもとても可愛らしく、また力強いのである
独特の簡潔な文体、非日常的な人間関係のなかで描かれる『キッチン』や『満月』は、人によって少し読みにくいかもしれないと思ったが『ムーンライト・シャドウ』には、本当にその世界に引き込まれた
そして正直、『やられた』と思った
情景や登場人物の心情、そういったものを読者の想像力に適度に委ねている手法は読む者のそれまでの人生経験が深ければ深いほど、恐ろしくリアリティを生むように思える
それは、本当に、今、こうして、この時期に、この作品を読めたことを感謝したい
この作品の普遍性は、扱っているテーマとそうした読み手に情景を想像させる表現方法に起因しているのではないか?
というのが、この作品を読み終んだ、大きな収穫だった
もうひとつ特徴的なのは、生きる様子の描写
寝る、起きる、食べる という人間の生きているうえで、当たり前のように繰り返す行為を、死という凶事を克服していく中で、実に身近な距離感で描いていることだろうか
簡潔でどこか不自然な自然体のキャラクターが虚像に見えないのは、この効果が大きいと感じた
最後にこの作品を読むきっかけを与えてくれた Cindyさんに感謝
キッチン (角川文庫)/吉本 ばなな

¥420
Amazon.co.jp
時間がかかる
根気が続かない
そしてそんな自分がすんなり読める本には特徴がある
スティーブン・キングにしろ夢枕獏にしても、どこか癖がある
吉本ばななといえば、時代は80年代後半、世の中はすっかりバブルに突入した頃
ワタシにとっては、『流行りもの』にしか思えなかったし、好意的には見ていなかった。
どうせみんな、流行で読んでいるんだろう
思い返せば、自分がキングに出会って短編の「霧」(映画『MIST』の原作)を読んだ頃である
あまりにも世界が違うように思える
自分で物語を書くようになって、少しばかり、他人の本を読もうという気になった
ワタシは本を読む事が、たぶん嫌いなのだ
それでいて、一度はまると、その作者にぐいぐいと引き寄せられてしまい、場合によってはそれで嫌いになってしまうこともある。
さてさて、本題
本当に、今、読んで、良かったと思う
『キッチン』には3作が収められており、タイトルの『キッチン』『満月――キッチン2』『ムーンライト・シャドウ』でこの3つの作品に共通しているのは、耐え難い『身内の死』とそれを克服してゆく主人公 ということだ
ワタシ自身、大きな消失感を伴う身内の死を経験した事がない
父方の祖父、母方の祖父、よく面倒を見てもらったやさしい親戚、飼っていたネコ……
或いは、同級生の自殺や事故死
それでも、心が激しくダメージを受けるような死には、まだ出会っていない
物語において、死を扱うとき、ワタシは時々困ることがある
それは現実の人の死よりも、物語で読んだり聞いたりした架空の死、或いは伝記のほうが、はるかに死の悲しみを感じ、死に対する現実感が希薄なことである
この作品で描かれている死とは、ドキュメンタリーのような生々しいものでもなく、また物語のように劇的でもなく、淡々と登場人物の前に突きつけられた『死』という事実、等身大の凶事である
理路整然と悲しみの回路が働く姿は、どちらかといえばほとんど描かれていない
そこにあるのは、身内の死という凶事を前にして、それを克服しようとする 意地らしいほどの登場人物の不器用で、滑稽で、純粋な生き様
う~ん、どうもワタシの力では、このあたりが表現の限界のようだけど、要は読んでいて、ことごとく、いい感じに期待を裏切る登場人物の行動は、とてもとても可愛らしく、また力強いのである
独特の簡潔な文体、非日常的な人間関係のなかで描かれる『キッチン』や『満月』は、人によって少し読みにくいかもしれないと思ったが『ムーンライト・シャドウ』には、本当にその世界に引き込まれた
そして正直、『やられた』と思った
情景や登場人物の心情、そういったものを読者の想像力に適度に委ねている手法は読む者のそれまでの人生経験が深ければ深いほど、恐ろしくリアリティを生むように思える
それは、本当に、今、こうして、この時期に、この作品を読めたことを感謝したい
この作品の普遍性は、扱っているテーマとそうした読み手に情景を想像させる表現方法に起因しているのではないか?
というのが、この作品を読み終んだ、大きな収穫だった
もうひとつ特徴的なのは、生きる様子の描写
寝る、起きる、食べる という人間の生きているうえで、当たり前のように繰り返す行為を、死という凶事を克服していく中で、実に身近な距離感で描いていることだろうか
簡潔でどこか不自然な自然体のキャラクターが虚像に見えないのは、この効果が大きいと感じた
最後にこの作品を読むきっかけを与えてくれた Cindyさんに感謝
キッチン (角川文庫)/吉本 ばなな

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超能力というものがある
いや、ないのかもしれない
でも、あってもいいと思う
いや、あんなものはまがい物、あってはならない
議論は自由にされるべきである
超能力は あるのかもしれないし、ないかもしれない
あって欲しいと言う人にとっては、存在の可能性を示す情報は金を出してでも欲しい
まがい物であるという人には、タネや仕掛けがあることを指摘する情報を金を出してでも買う
結論
メディアは嘘をつく
メディアは所詮生き物である
生物とは、簡単に言えば存在する為にエネルギーを消費する物体、そしてそのエネルギーを得る為に栄養を摂取或いは捕食するのである
つまりメディアも行き続ける為には栄養を取らないといけない
金がなければ生きていけない
なんで超能力?
ユリ・ゲラーとはテレビというメディアでしか、成功し得なかった社会現象である
1974年 今ではUFO研究かとしてしられる矢追純一氏がディレクターを勤めた番組でユリ・ゲラーのスプーン曲げが放送されると『昨日のあれ、見た?スプーン曲げ!』『見た見た、壊れた時計が動いたのすげーよな』などという会話でもちきりになる
番組は超能力の存在を断言はしないものの、どちらかと言えば存在を肯定する立場として視聴者に判断をゆだねる。スタジオに特設された電話に次から次へと視聴者から電話がかかってくる。見ている側は、番組が肯定しなくとも、一般の視聴者からの電話がかかってきている様を見て、「超能力はあるのかもしれない」と誤認識をする
『誤認識』=ほかの人がそうであれば、そうなのかもしれない
それまで新聞や雑誌の情報を追いかけるだけのテレビが、はじめてテレビ独自の情報を発信し、、マスメディアの中での存在感をあらわした事象である
そこでなにが起きたのか?
紙媒体メディアはこれに対抗して、『超能力はいんちきだ!』と銘打った雑誌の特集を組み、テレビメディアに対抗した
今にして思えば、実にシンプルな対立図式だ
テレビは超能力であろうが手品であろうが、視聴者が喜びそうなものは、UFOでも幽霊でも怪獣でもよかった。情報をただ流すだけでなく、作って放送する事でマスメディアのなかの各個たる地位を確立しようとした。そしてそれまで情報の発信元であった雑誌は、そのことに驚異を感じ、超能力のいんちきよりも『テレビのいんちき』を許せなかった
それぞれが情報という社会に生きる生き物であり、それそれの生存のために、相手と対立する。
実際の被害を受けるのは視聴者?
いや、視聴者はただそれを面白おかしく見ているだけで、実際に超能力があろうとなかろうと、それがブラウン管の中、そして写真の中でしかないことであれば、脳の中の生存機能ではない。『娯楽を楽しむ機能』でしか思考をしない
だが、いったんそれが自分の身に降りかかるとどういうことになるのか?
大ヒットホラー、『リング』のある部分はフィクションではない
実際に超能力があるとされた人物が、大衆の目にさらされ、辱めを受けたのである
そう、超能力だから笑って済まされる部類だが、いや、超能力でもこれは、度が過ぎれば、社会から極端に直下の優れた人を阻害することになりかねない。彼等は時に社会からもてはやされ、そして謗られ、多くの場合、誰にも見られないところで血の涙を流しているのだ
しかし、ここまでの話、実は超能力はどうでもいい
いま、中東を中心にfacebookなどのインターネットを利用したソーシャルネットワークが話題になっている。これは革命、改革という『超能力』を題材とした既存のメディアとインターネットメディア=『ソーシャルメディア』の対立軸の図式にも似ている
マス VS ソーシャル
わたしたちは超能力の番組を見ているよな感覚でこの対立軸を感じることができると同時に、超能力の時には見えなかったものを見ることができていることを、十分に考えなければならない
あそこでは実際に、多くの人の血が流れているのだという現実感を、どうか失わないでいて欲しい
しかし、生々しい人の死の映像には、妙に現実感がない
それは人間には、他人の死を自分の死、死んでいく痛みへの恐怖を直感的に感じることを拒絶する機能があるからに他ならない
だからこそ、テレビは時に人の死をドラマのように伝えることに大きな意味を持つのだ思う
つまり対立軸があること、そして、それぞれに役割があること、特徴があること、そして立場があることを認識することが、自らが『不当な行為の目撃者』となったときに、より人間らしい反応ができるのだと、そんなことを、今朝、つぶやきたくなった。
いや、ないのかもしれない
でも、あってもいいと思う
いや、あんなものはまがい物、あってはならない
議論は自由にされるべきである
超能力は あるのかもしれないし、ないかもしれない
あって欲しいと言う人にとっては、存在の可能性を示す情報は金を出してでも欲しい
まがい物であるという人には、タネや仕掛けがあることを指摘する情報を金を出してでも買う
結論
メディアは嘘をつく
メディアは所詮生き物である
生物とは、簡単に言えば存在する為にエネルギーを消費する物体、そしてそのエネルギーを得る為に栄養を摂取或いは捕食するのである
つまりメディアも行き続ける為には栄養を取らないといけない
金がなければ生きていけない
なんで超能力?
ユリ・ゲラーとはテレビというメディアでしか、成功し得なかった社会現象である
1974年 今ではUFO研究かとしてしられる矢追純一氏がディレクターを勤めた番組でユリ・ゲラーのスプーン曲げが放送されると『昨日のあれ、見た?スプーン曲げ!』『見た見た、壊れた時計が動いたのすげーよな』などという会話でもちきりになる
番組は超能力の存在を断言はしないものの、どちらかと言えば存在を肯定する立場として視聴者に判断をゆだねる。スタジオに特設された電話に次から次へと視聴者から電話がかかってくる。見ている側は、番組が肯定しなくとも、一般の視聴者からの電話がかかってきている様を見て、「超能力はあるのかもしれない」と誤認識をする
『誤認識』=ほかの人がそうであれば、そうなのかもしれない
それまで新聞や雑誌の情報を追いかけるだけのテレビが、はじめてテレビ独自の情報を発信し、、マスメディアの中での存在感をあらわした事象である
そこでなにが起きたのか?
紙媒体メディアはこれに対抗して、『超能力はいんちきだ!』と銘打った雑誌の特集を組み、テレビメディアに対抗した
今にして思えば、実にシンプルな対立図式だ
テレビは超能力であろうが手品であろうが、視聴者が喜びそうなものは、UFOでも幽霊でも怪獣でもよかった。情報をただ流すだけでなく、作って放送する事でマスメディアのなかの各個たる地位を確立しようとした。そしてそれまで情報の発信元であった雑誌は、そのことに驚異を感じ、超能力のいんちきよりも『テレビのいんちき』を許せなかった
それぞれが情報という社会に生きる生き物であり、それそれの生存のために、相手と対立する。
実際の被害を受けるのは視聴者?
いや、視聴者はただそれを面白おかしく見ているだけで、実際に超能力があろうとなかろうと、それがブラウン管の中、そして写真の中でしかないことであれば、脳の中の生存機能ではない。『娯楽を楽しむ機能』でしか思考をしない
だが、いったんそれが自分の身に降りかかるとどういうことになるのか?
大ヒットホラー、『リング』のある部分はフィクションではない
実際に超能力があるとされた人物が、大衆の目にさらされ、辱めを受けたのである
そう、超能力だから笑って済まされる部類だが、いや、超能力でもこれは、度が過ぎれば、社会から極端に直下の優れた人を阻害することになりかねない。彼等は時に社会からもてはやされ、そして謗られ、多くの場合、誰にも見られないところで血の涙を流しているのだ
しかし、ここまでの話、実は超能力はどうでもいい
いま、中東を中心にfacebookなどのインターネットを利用したソーシャルネットワークが話題になっている。これは革命、改革という『超能力』を題材とした既存のメディアとインターネットメディア=『ソーシャルメディア』の対立軸の図式にも似ている
マス VS ソーシャル
わたしたちは超能力の番組を見ているよな感覚でこの対立軸を感じることができると同時に、超能力の時には見えなかったものを見ることができていることを、十分に考えなければならない
あそこでは実際に、多くの人の血が流れているのだという現実感を、どうか失わないでいて欲しい
しかし、生々しい人の死の映像には、妙に現実感がない
それは人間には、他人の死を自分の死、死んでいく痛みへの恐怖を直感的に感じることを拒絶する機能があるからに他ならない
だからこそ、テレビは時に人の死をドラマのように伝えることに大きな意味を持つのだ思う
つまり対立軸があること、そして、それぞれに役割があること、特徴があること、そして立場があることを認識することが、自らが『不当な行為の目撃者』となったときに、より人間らしい反応ができるのだと、そんなことを、今朝、つぶやきたくなった。