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文化系寄り道倶楽部

アラフォーで2児のパパであり、80年代の音楽をこよなく愛し、ガンプラを愛で、パソコンをいじくり倒し、台所を妻から奪い取り、キングの小説におびえ、究極超人あ~るで笑いころげ、夜な夜なUST配信をしている

恋愛小説短編集収録予定作品です

これは僕の持論というか仮説なんですが、

男性の究極の愛の形は相手を食らうこと

で、女性の場合は、その男性のもっとも好きな部位を所有し愛でること

ではないかと思っています

そういう作品です




『それ』




 私は『それ』を手に取り、しげしげと眺めた。いや、もっとねっとりとした視線だったに違いない。
 『それ』は消して軽い物ではなかった。抱きかかえるのにはずっしりとした質量がしっくりと来た。しかし、両手でしっかりと持って、よーく眺めようと腕を伸ばしたりするのは1分も持たない。それは女の私だからと言うわけではなく、それだけ重みのあるものと言うこと。

「この手にしっくりくるかんじがたまらないの」
 『それ』がたとえばのっぺりとした丸い球体なら、うっかり手から滑り落ちてしまうかもしれない。かといって岩の塊のようにゴツゴツしていたら、手のひらがデコボコになって痛い。水枕のように柔らかすぎても重心が安定しない。

「ひんやりとした手触りも好き」
 鉄球のように温度を奪い取るような冷たさではなく、冬のコンクリートのように乾いていない。みずみずしい果物のような『それ』に唇をそっと当てると、どこか官能的な気分になってしまう。

「食べてしまいたいという衝動を抑えるのもたいへん」
 唇を当てるだけでは満足できず、舌の先を押し当ててみたり、軽く歯を立ててみたりする。ぞくぞくとする間隔に目がくらみそうになり、思わずギュッと抱きしめる。『それ』は、表面が柔らかかく、それでいて中にはごつごつとした固いものが入っている。しかし、全部が全部固いわけではない。ところどころ小さな隙間があり、指で強く推すとすっと、入っていく。

「この穴の中に指を入れるの……好き。しっとりとして、ベチャットして、どんどんいやらしい気持ちになっていくわ」
 『それ』にはいくつかの穴が開いている。一番小さな穴には小指がようやく入る程度。一番大きな穴には無理をすれば手首まで入るかもしれないけど、さすがにそこまでは試したことはなかった。

「ぬくもりなんていらない。『それ』さえあれば私は淋しくなんかない」
 自らが望んだこと
 自らが選んだこと
 自らがなしたこと

 心の欲するまま
 心の赴くまま
 心の命ずるまま
 
 『それ』を眺めてはつぶやき、『それ』を撫でては語りかけ、『それ』を感じては欲情した。

「嗚呼、満たされていく。どんどん、どんどん満たされていく。やがて溢れ出してしまうかもしれない。『それ』は私の想い。『それ』は私の命。『それ』は私のすべて。これからはずっと私のもの。誰にも渡さない。誰にも奪われない。誰にも触れさせない」

 『それ』は奇跡であった。彼女の『それ』に対する強い思いが、奇跡を起こしたのだと思いたい。『それ』を納めていたものは、ひどい悪臭を放ちながら、すでに朽ち果ててしまっている。はたして『それ』は美しくもあり、悲しくもあり、哀れでもあった。しかし、『それ』が彼女のすべてである限り、決して朽ち果てることはないのだろう。

 残酷さとは、時に悪魔よりも神のなせる業であると、そう思えるほどに『それ』はどこまでも無垢で、どこまでも純粋で、生も死も超えた次元の存在。善も悪も超えた次元の存在。有も夢も超えた存在。存在を超えた存在。

 『それ』はどこかさびしげに見える
 『それ』はどこか安らいで見える
 『それ』はどこか哀れで
 『それ』はどこか愛おしくて
 『それ』はどこか神々しく
 『それ』はどこか禍々しい


「ねぇ、あなた。買い物に行ってくるから少し待っていてね」
 彼女は『それ』の穴に向かって囁き、突起した柔らかな部分にキスをした。

「ここで待っていてね。どこにもいっちゃいやよ」
 彼女は『それ』を大事そうに抱え、台所にある大型の冷蔵庫の中にしまいこんだ。それでもなお、彼女は名残惜しく冷蔵庫に手のひらを当てて、しばらく眺めていた。

「ずっと、一緒よ。ずっと、ずっと……」



おわり
僕が10代の頃に読んだ活字数(強制されず、自ら読んだ本)は、おそらく僕がこれまで、書き上げた小説の文字数をはるかに下回ります
いや、10代といわず、もしかしたら、すでに読んだ数を書いた数が超えていることだってありうる

そのくらい僕は本を読むことに非積極的なわけです

そんな僕がなぜ物語を書くかと言えば、「書きたいから」にほかならず、もっと言うと、「書く以外に表現方法がないから」なのです

音楽を作ったり、演奏したり、絵をかいたり動画にしたり
そういう力が僕には足りずに、思ったことを表現できなかったから

「しかたがなく書いている」

で、その「しかたがなく書いている」ものを、読むことが苦手な僕が 他人に「これを読んでください」と勧めるのは本当に 意味が解らないのです


それでもなお、創作をしたいという僕の衝動は、どれほどの作品を書いても衰えることを知らない

自意識過剰なのか自慰過剰なのか


僕は僕が書いた作品を読みかえし

面白いじゃん

と思う

僕はこの矛盾と言えなくもない「他人に僕の作品を読んでもらう」ことに、いささか消極的であり、それでも読んでもらったあとに感想をいただけると、びっくりするくらいにうれしいのです


読者を想定した確信犯的な創作活動

それをプロというのか、それを作家と言うのか僕にはわからないけれど

僕自身が楽しい読み物を僕が書く という明確な軸と

僕と同じ感性を持った人が、必ずどこかにいる

という根拠のない自信が、必ずしも出版社に認められるように努力する必要はない

と 僕の現在の活動範囲をネット投稿 と言う形に限定させている


それでも「今年は前に出るのだ」と目標を立てて、とりあえず一部有料サービスに切り替えた
費用をかけて表紙や挿絵をつけることも進めている


なんとなくでは動かない
今年は確信犯で行こう


いまのところ継続中であります


今後の予定は・・・
投稿サイトにいくつかのコンテストのようなものに応募し、できるだけ多くに人の目に触れるようにする

有料化に向けて一部表紙、挿絵の改訂(権利関係をクリアにする)
過去作品の改訂及び縦書き対応
短編集の再編
ラジオドラマ、朗読に向けた過去作品の改訂、新作、新シリーズの作成
インディーズアーチストやイラストレイターさんとのコラボ
人が集まるイベントへの参加または企画


そのためには・・・仕事を効率よくこなせるようにする!
五度目のワールドカップ出場を決めたサッカー日本代表

1998年フランス大会
2002年日韓共催大会
2006年ドイツ大会
2010年南アフリカ大会

そして2014年ブラジル大会

1994年開催のアメリカ大会での予選。ドーハの悲劇から物語は始まった(僕の中では)

この物語の主人公をエースとしようヒロインは代表監督
アメリカ大会
オフト監督のもと、近代ヨーロッパサッカー。組織のサッカーを目指したなか、ことあるごとにラモスは監督と対立したという
個と組織

日本のサッカーが初めて「日本のサッカーはどうあるべきか」という命題に向かうことになる
日本人の協調性はラモスと言う強力な個性を見事に取り込んだ
そして結果を次々とだし、ワールドカップまであと一歩と言うところまで来た
ブラジル出身でサッカーを知るラモスとブラジルで武者修行をしたKAZU
世界を知る選手と世界に憧れる選手の間の差は、おそらく想像を絶するものだったのだろう
ドーハの悲劇はやはり起きるべくして起きたのではないだろうか

エースはKAZUへと引き継がれる
日本の絶対的エース。そこにオリンピック世代、小倉、前園を加え、身体能力と個人技に長けたメンバーで挑んだファルカン監督
個あっての組織

しかしその試みはほんの数試合瓦解する

日本人でなくてはコミュニケーションはとれない
今では考えられないようなことかもしれないが、それは今にして思えば、日本人と外国人の差ではなく、サッカー人としての成熟度の違いだったのでないかと・・・この失敗はジーコで繰り返される

加茂監督のもと挑んだフランス大会予選
初戦こそホームで大勝したものの、その後成績が振るわず、自力での予選通過がなくなるという事態を受けて、加茂監督を更迭。当時コーチだった岡田が監督になるも、初戦は危うく負ける試合をどうにかドローに持ち込んだ

絶対的なエースは、苦悩する
ラモスと違い、FWのKAZUは徹底的にマークされ、厳しいあたりに満身創痍の状態だった


そこに中田が現れる
これまでのエースとは違うタイプ
理知的であまり多くを語らない。感情を表に出さない若手の台頭に本格的な世代交代の予感

1996年アトランタオリンピックでのマイアミの奇跡の世代とドーハ世代にはみえている景色が違っていた。
ジョホールバルの歓喜は世代交代を予感させられる象徴的な試合でもあった
KAZUがピッチに立っていた時間と城が立っている時間では違うチームに見えた

それだけKAZUの存在感は大きかった。

前半はドーハ組、後半マイアミ組。城の同点ゴール。そして中田のシュートのこぼれ球に合わせた野人=岡野は、経験不足から再三のチャンスをはずしながらも、最後の最後に決めた


「外れるのはカズ、三浦カズ」
誰もが耳を疑い、或いは大きな焦燥感に見舞われた

なんとなく解っていた。
もうボクらのエースはぼろぼろだということを

ワールドカップ出場と言う皆の夢を背負い、戦い続けた男は、とうに限界点を超えていた

時代は繰り返される
ファルカンからジーコへ
kazuから中村俊輔に

惨敗で終わった初のワールドカップ
初戦のアルゼンチン戦がすべてだった
決戦の大舞台で何ができるのか
個々の課題が浮き彫りになった。それは技術の問題ではない。経験や個々の選手が見ている景色の違いだった
出場が夢の選手と結果を求める選手
勝ちたい選手と負けたくない選手


kazuのあとを受け継いぎ、エースとして期待された城は空港で水をかけられた
結果を残せなかったエースに対する厳しい洗礼
日本はサッカーの国になった

思ったことがなにもできない大会だったフランス大会を経て、サッカー協会は再び外国人監督を招へいする

フランスからきたその男は、アフリカでの実績を引っ提げ、フラット3なる戦術を日本にもたらした。

トルシエJAPANこそ、日本代表がこれまでやろうとしてできなかった ビジョンを持ったチーム作りであった

ドーハ世代はほぼ代表を退き、黄金世代と呼ばれる若手の起用が話題になった
79年組と呼ばれる小野伸二・稲本潤一・高原直泰・中田浩二・小笠原満男はその後世界の舞台へ飛躍する

各年代の大会で結果を残してきた黄金世代と新しい戦術

シドニーオリンピックを経て、自国開催に向けたチーム作りは順調にいくかに見えた

しかし、ここでエースと監督の不破が露呈する
個の力、組織の力以前に、誰がこのチームの顔なのか
トルシエは組織を優先させる形で中村俊輔をメンバーから外し、本大会に臨んだ

チームにエースは必要ない

中田ヒデはチームの要ではあったが、エースではなかった
予選リーグ突破という最低限の目標を達成し、決勝トーナメントに臨んだトルシェJAPANは、最後の最後にトルシェ監督自身がエースになろうとして失敗した。トルコ戦をそう分析するものは少なくない。

暗黒の時代は過ぎた
これからは自由で、わくわくするようなサッカーを!
外国人でありながら日本をよく知る人物 ジーコは日本のサッカーファンやマスコミの妄想を実現してくれる救世主に思えた

サッカー協会もまた、ファンやマスコミと同じ夢を見た

夢を信じる力は、結果を引き寄せる
悪いなりにも結果を残してきた監督の采配は、一部激しく批判する者もいたが、もはや引き返すことはできなかった

ファルカン監督とジーコはかつてカナリア軍団のなかで黄金のカルテットと呼ばれた中の二人である

体調を崩し、満身創痍のエース、中村俊輔を使い続けたジーコ監督とkazuをメンバーから外した岡田監督。フランス大会の惨敗とドイツ大会の惨敗。結果をだしながらも、最後の最後に失敗したトルシェ監督。

「日本はフィジカルが足りない」
そう言い残して日本を去ったジーコ監督を批判するよりもやらなければならないことは山積みだ。

エースの座に就くことを拒み続けた中田ヒデは、最後の最後にエースとしての役割を果たそうとするも、その役割での自己の限界を痛感させられ、早すぎる引退を決意する

エースも要もいなくなってしまった日本代表

日本サッカー協会はチーム作りに定評のあり、Jリーグで結果を出している監督を強引に代表監督に引き抜いた

オシムイズム=考えて走るサッカー

オフト監督のアイコンタクト、トータルフットボール。トルシェ監督のフラットスリー、ジーコ監督の自由なサッカー。マスコミはつねにキャッチーなフレーズを欲しがり、オシム監督はおそらくしぶしぶそれに答えた

理論的で誰よりもサッカーを愛し、サッカーを知り、日本を理解しようとした男は、PKになるとロッカールームに下がってしまうことはあっても、常に選手たち、ファンに対して明確なビジョンを示してきた

誰のサッカーでもない。日本人のサッカーを見つける旅
オシムは日本人に日本人とはなんであるかを問いただし、選手たちは結果を出していった。

中村俊輔は10番を背負い、エースとしてチームを引っ張った

しかし、志半ばで指揮官は病に倒れる
ぎりぎりの選択を迫られた日本サッカー協会は誰もが納得する答えを出す
Jリーグでも結果を出した岡田監督が就任する

岡田監督はフランスワールドカップのときと同じように途中から指揮を引き継ぐことになったが、何試合かを経て明確に自己の理論を展開し、オシムから引き継ぐべきものは継承し、それでもなお自分のチームを作ることを決断した

目標はベスト4

しかし、アジア予選通過を決めたあと、なかなか結果が出せなかった。チームとして機能していないと強い批判が飛び交う。

南アフリカ大会直前、岡田監督は大きな決断をする
それは、かつて自分が決断したことと同じであり、また違う決断
エースの中村俊輔をスタメンから外し、本田圭佑のワントップという布陣はファンやマスコミだけではなく関係者も驚いたことだろう

結果は吉と出る

予選を勝ち抜け、トーナメントの初戦、パラグアイ相手にPK戦までもつれ込み、敗退した

しかし、これまでの大会の中で、もっとも実力を発揮できた大会という印象を多くのサポーターが感じたし、次のブラジル大会に向けて明るい材料が多かった

傷心のエース中村俊輔は静かに代表を去り、本田圭佑を中心とした海外組中心のチーム。そしてザッケローニ監督の堅実なチーム作りは、ここまでしっかりとした結果を残してきた

自国でのワールドカップ出場決定がかかる試合で、どうにかオーストラリアに追いつき、5大会連続でワールドカップ出場を決めた日本代表の記者会見

日本のエースと呼ばれる本田は、目標をワールドカップ優勝と定め、自らを鼓舞するだけではなく、選手たちにも高いレベルへ挑戦することを要求した

それは本田の個性であるのか
それもある

しかし僕は思う
日本がここまで積み上げてきたサッカーの歴史が、彼を突き動かしている

ドーハの悲劇の前、韓国戦に勝利し、浮かれる選手やマスコミに対して、ラモスは厳しく叱咤した

「まだだ、まだ何もきまっていない」

チームを去るとき、kazuは言った

「魂はおいてきた」

成田空港でファンに水をかけられた城は言った

「ファンからの批判を甘受する」

中村俊輔はゴールを決めた瞬間、自らの背番号を指差しアピールする
10番こそエースの証

中田英寿はピッチに大の字になり、引退を決意する
彼の言葉は届かなかった
自分ができることとチームができることの狭間
それは個々の意識の違い
世界を知る者と知らない者の間にあるどうしようもないギャップ

本田圭佑は受け継いでいる
日本のエースの怒り、誇り、葛藤、責任、夢
それを魂というのであれば、魂は脈々と引き継がれていっている

そういうことがあるのだということを多くのサッカーファンに知って欲しいと、僕は思うのです

日本代表 ワールドカップ出場決定おめでとう!
想像に足る暴力は防ぐことができない

人は想像できることは実現できる・・・などと申します

それはポジティブなことがら――夢の実現や、目標の達成、人間関係の良好な関係の構築といったことがらであればいいのだけれども、 同時にマイナスのイメージ=ネガティブな想像もまた同じである



もしも、僕が 自分の大事な人を 理不尽な理由で傷つけられたり、失ったりしたならば、僕はそれを許さない


許さない という結論に達したとき、そこで想像できる暴力的な行為は いかなる法的拘束、道徳的規範も抑止力にはなりえない


すなわち、想像に足る暴力は防ぐことができない と僕は思うのである


従軍慰安婦は想像を絶する暴力だろうか?

アメリカインディアンの虐殺は想像を絶する暴力だろうか?

そもそも戦争とは想像を絶する暴力だろうか?


人は武器となりうる道具を手にした瞬間に、それによって引き起こされる暴力を想像することができる

逆に言えば、銃を知らない者は、銃による暴力を想像できない

性欲を知らなければ、性による暴力はなしえない


さて、はたして暴力の是非を論じることに何の意味があるのか
もしあるというのならば、それは暴力を想像しうる武器を完全に放棄することが前提でなければ意味がない


知らない者は探さない

いざ、暴力に身をゆだねようとしても 銃を知らない者は銃を探さない ナイフを知らない者は刃物を探さない 火を知らない者は油を探さない


つまるところ文明とは暴力と無縁ではいられない
その暴力を制する手段としての権力であり、法であり、道徳であり、信仰なのだ


はたして人類に未来はあるのだろうか
より発展した文明は、より強力で強大な暴力を生むだろう
いや、すでに人類は自らを滅ぼしかねない文明を有している


人類は未だ想像に足る暴力を防ぐことができないというのに

権力が腐敗し、法が形骸化され、道徳が軽んじられ、信仰が神を失った時
人類は想像しうる暴力によって滅びるのかもしれない







という前振りで始まるSF小説を書きたいと、思いついたのでした
今から30年後の未来
人類はイメージしたものを物質化する技術をついに発明する
それによってもたらされる 新たな危機とは・・・

絶賛妄想中!
5月18日~19日 東京ビックサイトで開催されたデザインフェスタVol37 にいってきました

僕の師匠 アジトさんとお友達のなるしちゃんが出展するということで、遊びにいってきました

そこで出会った、なるし作 タイツマン

ちょっとした楽画企から生まれたこのキャラクターのシールをひどく気に入ってしまった僕は、そのキャラクターを使って遊び倒そうと考え付きました

それがこれ!

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