震災があった日、僕は世田谷の豪徳寺周辺で仕事をしていた。
そこか、僕が落ち着けるようになったのは夜中の12時になるような時間だった。
小説などを書いている人間は、こういうとき、どこか度し難い部分=ネタを探すことをしてしまう。
そして、それが頭の中でしっかりと形になり、書き出したころ・・・自分が予測していたよりもはるかに現実のほうがSFじみていて、サスペンスみたいで、結局僕は、その作品を書くのをやめた。
妄想、想像から作り上げた作品を上回るような現実って、いったいぜんたい、ボクらはどんな世界に住んでいるのか?
そこで、僕は、もっと、もっと身近なテーマを書くことにした。
僕自身が体験したこと――まるでスピルバーグの「宇宙戦争」みたいに、街の中を逃げ惑う人々、3月11日に渋谷でみた光景は、まるで戦争のようだった。
「逃げ惑う」は適切な言葉ではない
想定外の出来事に戸惑い、さまよう様
茫然自失と大衆心理と情報格差
僕が見た風景は、ときに人は助け合い、ときに人は奪い合い、ときに人は労わりあう
その行動原理は、一定の非常事態の中での「助け合おう」という意識――いや、これは日本人の文化なのかもしれないが、同時に自分で判断する事ができず、その場の総意に流される弱さ――マスコミに対する情報の依存度が高い人ほど、その行動は混沌としていた。
僕は結局、今まで直接被災地に足を運んではいない
復旧と復興が進む中、現時点でもそれは非日常の有様に違いないし、見に行くべきなのだろう
しかし、「見なければ書けない」ということとは ちがう
見ないで書くことは 見ないうちにしかできない
これは いいわけだろうか?
実際僕は 見るのが怖い
言葉を失わないという 自信もなければ、リアルな現実の前にひざまずかない強さも持ち合わせていない
僕は、僕のできることを
そう、思いながらすごした半年は、常に被災地とは遠いところに自分の身を置いていた。たぶん、これからもそうだと思う。
僕はあの日みた、世界を描く
僕はあの日感じた、世界を描く
僕はあの日触れた、世界を描く
それが、描き切れたら、次のことを考えよう