去年のお盆に、妹は逝ってしまった。
妹は、看護師として総合病院で定年まで勤め、半年ほど休養した後、別の病院で働きだした。
至って元気で、お休みの期間、海外旅行に行き、国内の行きたい所にも行った。
まあ、仕事をしている時も、旅行や、推しのライヴ、美味しいものを食べるなど、存分に楽しんではいた。
職場の仲間や、昔からの友達、家族と上手に付き合いながら、楽しんでいた。
もちろん、私も妹が大好きで仲良しだったので、コンサートやディナーショーに、買い物やランチ、お花を観に行ったり、楽しい時間を過ごしていた。
何となく、私の家で、まったりすることもあった。
母親は、私が9歳で妹が3歳の時に亡くなったから、妹は母親の記憶がないらしい。
父親は、とても優しくていい人だったけど、頼りなく、超ヒステリーな小母さんを連れてきた。
すっごい、駄目父になってしまった。
子供たちは、辛い子供時代を過ごした。特に妹が、一番悲しい思いをしたはずだ。
なのに妹は、一切父親に、怨みごとを言うこともなく、感謝の気持さえ表す。
「親のおかげで、兄弟姉妹に出会えた。美味しいものを食べられる体がある」なんて言うから、敵わない。
いつもニコニコと笑顔で、気遣いを忘れない。まるで天使だね。
私とは似ても似つかない。
父親が晩年、施設に入所中、肋骨骨折したかもしれない、ときのこと。
「息をすると胸が痛い」と、言うので、私はすかさず言い放った。
「じゃあ、息をしなければいい」
でも、父親も私の毒舌には慣れたもので、気にも留めない。スルーする。
その父親も亡くなった。
相変わらず、元気に仕事をしていた妹だけど、去年の二月に、コロナワクチン一回目を打ち、何となく不調になり、三月に、二回目のコロナワクチンを打った翌日、副作用で一日寝込んだ。基礎疾患なし。
ちょっと回復したものの、それからの妹は、体調が芳しくなかった。
「胃がモヤモヤする」とか「食べられん」などと言うようになった。
「胃カメラで検査してもらったけど、異常なかった」と言うので、ちょっと安堵した。
だけど、仕事中にも、椅子に腰かけるようになったらしい。よほど、辛かったのか。
「私、膵臓がんだって」と、ある日、妹から電話がかかって来た。
「えっ? どういうこと?」
「CA19-9値が、650……」
「何? どうして? 意味が分からん」
シーエーナインティンナイン→すい臓がんの時に、特異的に出る検査数値。
5カ月くらい前の健康診断の時には正常値だったのに、一気に百倍になっている。
いったいどういうことだ?
たまに他のことで数値が上がることがあるので、CT検査をしてもらった。
検査後、医師が聞いた。
「どこまで聞きたいですか?」
「全部聞きたいです」妹は、本物だったかと思いながら、医師の言葉を待つ。
「膵臓がんです。肝臓にも転移しています。このままだったら、後二か月です。化学治療をすれば後六カ月というところでしょうか」と、余命宣告を受けた。
「手術は?」
「出来る状態ではありません」
この医師の宣告を、妹は一人で聞いた。
何と残酷な会話。
「私、末っ子なのに」と、妹は小さく呟いた。
抗がん剤治療が始まった。
私は抗がん剤治療には反対だけど、妹がやる気になっているので、仕方ない。
何もしなければ余命二か月だと言われれば、やるしかないのか。
「抗がん剤治療は、いつまでやるのですか?」妹は医師に聞いた。
「半永久的です。それか効かなくなるまでです」
またまた残酷な言葉。死ぬまでということか。
負けるな。
二週間に一回、二泊三日で入院しては、抗がん剤投与をする。
右鎖骨下静脈にポートを植え込み、持続注入する。血管確保。
入退院を繰り返す。
最近は良い抗がん剤が開発されて、吐き気もあまりないのかな、効き目もあるかもしれないと淡い期待をしたけど、駄目だった。
吐き気と、体のダメージは半端ない。
弱っていく妹を見るのは辛い。
「抗がん剤止めよう」
周りのみんなの声と、あまりの辛さに妹は、抗がん剤を止める決断をした。
一時的に、快方に向かったかのように思えたけど、病気の進行は早かった。
がんは熱に弱いからと、温熱療法をした。
ラジウムベルトをする。
ラドン水を飲む。
野菜スープを、姉や私が届けて飲ませる。
決明子のお茶が肝臓に良いからと、届ける。
「妹を死なせてはならない」との、私たちの必死の気持ちに応えるように、
「生きたい」と、妹は頑張った。
良いと思われるものは何でもやろう。
でも病気は待ってくれなかった。
遺伝子治療の提案が先生からあったけど、体力が残っていなかった。間に合わなかった。
私は妹が家にいる時は、妹の家に通い、消化の良いもの、食べられるものを食べさせ、風呂に入れる。時に泊まり込んだ。
痛み止めのモルヒネで朦朧としながらも、私を気遣う。
夜中にふっと起きあがる。
「あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしている。どっちの世界もきついね」と目を瞑ったまま、消え入るような声で呟く。
「今、上から二人私を見に来た」
幻視だろう。
家にいては夜が不安だと、ついに、妹は入院した。
「妹さんの余命は、後、二週間です」
妹の余命がどんどん、短くなってくる。
入院した妹は、黄疸も酷くなり目を瞑っていることが多くなった。
「次に家族が面会できるのは、臨終の前です。そのころには、肝性昏睡に陥ります。ある意味本人は楽になります」医師の言葉は、悪魔の言葉だ。
でも、最後の三日間は先生に懇願して、妹の夫、息子夫婦、兄弟姉妹が交代で面会することができた。
「奇跡が起きる」と、姉と励まし合ってきたけど、覚悟をしなければいけないときが来たようだ。
「私は幸せやった」と、妹はか細い声で呟いた。
「私たちと姉妹やったから?」
「そう」
「私は幸せやった」と、妹はもう一度小さく呟いた。
「母ちゃんが迎えに来るまで待つんだよ。父ちゃんに着いて行っては駄目だよ」
「分かった……」
妹は、天井の片隅をじっと見ている。
「母ちゃんがいるの?」
返事はないけど、きっと母が見守っていると思った。
お盆の最後の日、ご先祖様があちらの世界に帰る日、妹も逝ってしまった。
きっと、母ちゃんに抱きしめられて、心も体も解放されたのだろう。
穏やかな顔になった。苦しかったのね。
膵臓がんと宣告されて、妹はたった三ヶ月で亡くなった。
最後は、妹の夫、息子夫婦と私が、看取ることができた。せめてもの救いだ。
自分では感じていなかったかもしれないけど、妹は頑張れても、心と体は堪えきれなかったのではないか。
六十代はまだ早いよ。
人より、少し短い人生だったけど、凝縮した人生だったのだろう。フル稼働で生きた。
ミッション完了と、あちらの世界へ帰ったのだろう。
妹が、決めた人生を全うしたのだと、認めてやらねばと思うけど、悲しい。
ここは妹と一緒に行ったところだと思うと、買い物もできないし、ランチも行けない。花も見に行けない。
なかなか時間が薬とはならないものだ。
落ち込む私の前に、時々妹が現れる。
夢に出てくることもあるし、半覚醒の私の前に、光の玉を回したり、ダンスを見せに来る。
「母ちゃんと一緒だよ。私は幸せだから、悲しまないで」と言っているみたいだ。
「分かったよ」
でも、やっぱり、思い出すと辛くなるよ。
私たちの生まれ故郷は、今日も穏やか。