激動のウクライナを振り返る


    

第1章

〜21世紀世界への侵攻〜





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今回限りは、いつもより真面目さを増して書かせていただきます。




▶︎ロシア軍によって破壊されたウクライナの街






ロシアがウクライナに侵攻した2022年2月24日、私は高校生でした。当時、"NATOの東方拡大"や"ドンバス戦争"、さらには"ウクライナという国の存在"すら知らなかった私にとって、この歴史的な大事件は大きな関心事となりました。


この記事では、2024年6月現在に至るウクライナとロシア、さらには西側諸国や世界全体を巻き込んだこの大きな戦争について、自分の体験や思い出を交えながら記録しておきたいと思います。個人的な意見が強く反映された内容となりますので、ご留意ください。









  開戦前夜


意外にも当時のニュースでは、ロシアがウクライナに侵攻しないという見方が大半を占めていました。理由は明白で、ロシアがウクライナに侵攻するメリットがデメリットよりも圧倒的に少なかったからです。ウクライナの領土と人民を手に入れたとしても、軍の多くを犠牲にし、ロシアとプーチンの国際的な評価をどん底に落とすような侵攻は考えにくいとされていました。何より、21世紀において誰もが損をする大戦争が起こるなど信じられなかったのです。


しかし、プーチンは虚偽の情報を信じ、勝ちのパターンのない賭けに出てしまったのです。


▶︎プーチン大統領







  開戦の知らせ


ロシアはNATOの東方拡大を警戒し、ウクライナがNATOに加盟する前に占領しようと企てました。国境付近に集結した20万のロシア軍が侵攻を開始し、戦争の火蓋が切られました。侵攻開始のニュースを聞いたとき、私は衝撃を受けました。国同士の本気の殴り合いをリアルタイムで経験するのは初めてで、その衝撃は計り知れませんでした。



▶︎当時のニュース映像(2024.2.24)




当時、様々な報道を見聞きして、ウクライナとロシアの戦力差は圧倒的であることを知り、ウクライナが数日のうちに降伏するだろうと考えていました。ロシアの長距離ミサイルやヘリコプターがウクライナに攻撃を加え、ウクライナの街が燃え上がる映像が次々に報道されました。これにより、ロシアが制空権を確保し、地上からの攻撃が限定的であることが明らかになりました。




ロシアはウクライナ国土の3割弱を占領し、首都キーウの中心部まで迫りました。このとき、私の中に最初の疑問が生まれました。なぜ味方でありながらアメリカやNATOはウクライナを助けないのかと。



▶︎当時のニュース映像(2024.2.24)



アメリカたちの答えは単純で、相手が核保有国のロシアであるため、戦えば第三次世界大戦、さらには核戦争に発展し、もっといえば地球が消滅するかもしれないからでした。この説明は納得するには十分すぎるものでした。しかし当時の私は、つまり最強のロシア相手にウクライナが勝てるわけがなく助けたところであまり価値がないと判断し、西側諸国が残酷な決断をしたまでだと感じました。


バイデン大統領は別荘で休暇中でしたが、侵攻後もホワイトハウスに戻りませんでした。この態度は、アメリカが関わらないという暗黙のメッセージでした。ウクライナの外交官がアメリカに緊急支援を要請した際、「お宅の国はあと3日で地図から消えるから諦めるしかない」と返されたというエピソードもあります。


この瞬間、自分はこの戦争の合理的な残酷さを理解し始めました。このときからウクライナはロシアと戦うだけでなく、西側諸国とも戦っていくことになったのです。







▶︎「Z」のマーキングがされたロシア戦車


また、侵攻を仕掛けたロシアの戦車や装甲車には「Z」や「V」の白いマーカーが付けられていました。これは友軍を誤射しないためのものですが、なぜウクライナの戦車と見分けがつかなくなるのか当時は分かりませんでした。もちろんその理由は、両国ともにソ連製の兵器を使用していたからです。かつて同じ軍隊だったウクライナ軍とロシア軍が、ソ連製の戦車で戦っているという事実に嫌悪感を覚えました。この戦争は血縁関係のある"元"兄弟の殺し合いでもあるのです。


この事実は、自分のこの戦争に対する認識を複雑化させ関心を大きく抱かせる要因になったことは間違いありませんでした。











  開戦直後のウクライナの底力


その後、驚くべきニュースが報じられました。ウクライナ軍は崩壊するどころか、必死の抵抗でキーウの陥落を防ぎ、ロシアの攻撃を耐え抜いたのです。ウクライナ軍は予想以上に強固で、ロシアや西側諸国が思っていたような貧弱な軍隊ではありませんでした。




ウクライナという"国家"も同様で、人口4000万の農業国は強いアイデンティティを持ち、ロシアと真っ向から戦うことを選びました。この意志は、オデーサ沖の小さな島を防衛していた数人のウクライナ兵士がロシアの黒海艦隊に楯突いたエピソードに象徴されます。





同時に、ウクライナ中の子供や女性、高齢者が難民としてポーランドなどの国境に押し寄せました。ウクライナの強い防衛意識が明らかになると、西側諸国の同情を誘い、ついにアメリカを始めとする国々がウクライナへの軍事援助を開始しました。


圧倒的な戦力差をハンデにしながら、ウクライナはロシア相手に民主主義を守る前線として戦い続けることになったのです。