蘭華は仔猫の側にしゃがみ込んだ。
側にいるだけで、息も絶え絶えの仔猫のから、全身が引き裂かれる様な痛みが伝わってくる。
蘭華は黒い毛皮にそっと手を伸ばす。


「―――ゥッ!?」


仔猫に指が触れた瞬間、まるで感電したかのように蘭華の体がビクッ!と震えた。
全身をつき抜ける恐怖。
また痛めつけられる、という息が止まる程の脅迫感。
そのまま引きずられ、取り込まれそうになる剥き出しの感情の渦に、蘭華は涙を溢した。


「っ、ごめんね、ごめんね…痛かったね、…怖かったよね…ッ、ごめんね…っ」


しゃくりをあげながら、優しく、想いを込めて、傷付いた体を撫でる。
ボロボロと滂沱の涙を流しながら、蘭華はいつまでも謝り続ける。
そっと撫で続ける手の平の下で、次第に緊張が解けていくのを感じた。


「……ぁ」


不意に、土と涙に濡れた手を、ザラッとした感触が襲った。
小さな舌を見せて、仔猫が蘭華の手を舐めている。
それを見て、初めて蘭華の顔に笑みが浮かんだ。


もう、鳴く力も残っていない仔猫を、蘭華は優しく撫で続ける。


心細く、寂しくないように。
触れる大地が冷たくないように。


ひとりじゃない。
ここにいるから。
ずっと、傍にいるから。


流れる涙は止まらない。
青灰色の瞳から零れる水滴が大地を濡らす。
手に落ちた滴は黒い毛皮をも時として濡らした。


トクン、トクン、と小さく脈打つ鼓動。



トクン…、トクン……



次第に弱く、遅くなっていく。




トクン………




そして、小さな命が消えたのを、蘭華は手の下に感じた。

二人は手を繋いで歩いた。
家では蘭華の祖父が二人の帰りを待っている。
特に何を話すでもなく、少しずつ沈みゆく夕陽を眺めながら、ゆっくりと小道を進む。
流れる景色を眺め、繋いだ手の温もりを感じながら、ダリアは最後のひとときを大事に抱き締める様に胸に刻んでいた。


すれちがう人の数がまばらに減っていき、人の通りがほとんど無くなった頃、不意に、ガクンッと蘭華の体が沈んだ。


「―――ッ!!」
「蘭…!?」


ダリアは咄嗟に繋いだ手を引き上げ、空いた方の手で蘭華の体を支えようとした。
しかし、差し出されたその手を振り払うように跳ね除けると、小さな体が飛び出した。


「蘭華!?」


ダリアは慌てて後を追おうとしたが、蘭華の向かった先にあるものを見て、足を止めた。
先刻、蘭華を取り囲んでいた子ども達が、道端に屯し何かを囲っている。
彼らの弱者を甚振る嗜虐の悦びに満ちた顔。
それを目にしただけでも、何をしているのか察しがつくというもの。
ダリアは何が蘭華をつき動かしたかを悟った。


「―――ッ!ッやめっ、やめてーっ!!」


蘭華は体当たりをかけて彼らの中に飛び込んだ。
突然の乱入者に、ドンッと突き飛ばされた子どもが驚き、尻餅を着く。


「なっ、何だよお前っ!?さっきはおとなしかったくせにっ!」


わめく子どもには目もくれず、蘭華は彼らの足元にあるモノに目をやり、息を呑んだ。


「―――ッ!」


其処には、四本の足をあらぬ方向に折られ、顔からも血を流す仔猫が横たわっている。


「ひどい…っ」


ぐったりとして、ヒクヒクと微かに髭を動かしている仔猫を前に、青灰色の目から大粒の涙が溢れ出す。
苦し気に顔を歪め、流れる涙を拭いもせずに、キッと残酷な加害者を睨み付ける。


「行ってっ!ここにいないでっ!!こんな、・・・ひどいこと、もうしないでっ!!あっちへ行ってっ!!この仔に触らないでーっ!!」


青灰色の蒼色が深みを増し、彼らを威圧する。


「なっ、なんだよっ!お前っ!!っ、その目とか、髪とか、気持ち悪いんだよっ!」
「お前なんか人間じゃねぇっ!そのねこと一緒だっ!!縁起悪ぃんだよっ!!おまえらなんか死んじまえっ!村から出てけっ!!」


尻餅を着いた子どもが、立ち上がりざまに手に掴んだ土を蘭華の顔に投げ付けた。
仔猫の前に立ちはだかり、彼らを睨み付けていた蘭華は、それをまともに食らってしまった。


「ッ!!」


咄嗟に目を瞑るも、顔中が土にまみれ、目には小石が入った。
それでも、蘭華は彼らが去るまで、涙を流しながら睨み続ける。


「お、おいっ、行こうぜ!」


仔猫を庇って立つ蘭華の後ろから、静かな怒気を燃やす若葉色の瞳が彼らを見据えている。
ゆっくりと近付いてくるダリアの姿に気付いた子どもが、他の子ども達を促して、逃げるように駆け出した。


子供たちが逃げ去るのを見送ってから、蘭華は子猫に向き直った。

まだ小さく、柔かい体は、僅かながらも浅く息をしている。

青灰色の瞳から、また新たな涙が溢れ出した。


雪降る空の薄鼠色
氷結に覆われた瑠璃石の蒼
陽光は冷たく白く輝き
風薫るは水の香のみ


かの地にて最強を表す蒼玉は
彼の人の瞳に宿り
何者にも破られぬ守護を貫く


彼らの眸は鮮血よりも赤く
唯一人、彼らの末裔たる
彼の人だけが双方の力をその身に宿す
今はもう亡き古のひと



「かあさま…?」


小さく呟かれた子どもの声に、ダリアは咄嗟に思考を閉ざした。
青灰色の瞳が不安げに見つめている。
ダリアは彼らに馳せた想いを封じ、目の前にいるい愛し子だけを想う気持ちを胸に満たした。


「お家に、帰ろうか」


袖の裾を掴んでいた小さな手を取り、優しくそっと握る。
それに応える様に、ぎゅっと、しっかり握り返された。


「うん…!」


にこっと、満面の笑みを返す子に、ダリアも愛おしさを込めて微笑み返す。


考えてはいけない。
過去に囚われてはいけない。 
感情が高まれば、想いが漏れる。
そうしたら、気付かれてしまう。


子どもには他者の思いを感じ取る不思議な力があった。


少女の様な面差しをしたこの少年の名を、蘭華と、遠い昔に、彼が名付けた。