2016日本シリーズ「日本ハムファイターズというコンテンツ-2」 | IDEAのブログ

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2006年から北海道に移転したファイターズは北海道日本ハムファイターズ株式会社が経営し、筆頭株主は日本ハム株式会社となった。
(旧ファイターズを運営していた日本ハム球団株式会社は経営権譲渡の後、特別清算手続を経て解散している)

本拠地移転に際し、その前年から監督に就任していたトレイル・ヒルマンを中心にチームの大改革に着手した。
その眼目となったのが、ドーム元年から導入したBOSである。
赤字続きだった球団経営に大鉈をふるうべくBOSシステム(ベーボール・オペレーション・システム)を、他球団に先駆けて導入することを決定したのは、GMに就任した高田繁(元巨人:現横浜DeNAベイスターズGM)だったと言われている。
BOSは支配下選手の数が多いMLBのチームが採用しているもので、シビアな球団経営を行うMLBでは必須のものだが「選手を数字だけで評価する」として、採用に二の足を踏む球団が多かった。さらに「選手の評価と登用は監督の専権事項」として、あまり重要視しない球団もいまだに多いのが、日本の現状だ。
だが、本拠地移転に絡めてチーム改革を目指していたファイターズは、BOSシステムの全面導入を決断、さらにシステムを生きたものにするため、MLBデトロイト・タイガースで仕事をしていた吉村浩をGM補佐として引き抜いた。吉村はスポーツ記者からパ・リーグ事務局を経て渡米、デトロイト・タイガースで強化担当をしていた異能の人物である。
吉村を引き抜いたのは、藤井純一球団社長(当時:現・池坊短大学長→近畿大学経営学教授)と巨人OBでV9戦士の高田繁GMの二人だ。
吉村はデトロイトでチーム編成に使用していたデータベースを改良、独自の視点でデータを盛り込み、新時代の球団経営に対応できるシステムにアップデートしたのである。
投手なら年間の登板数やイニング数、投球数、球種別の投球数、失点、自責点、打者ならゾーン別の打数や打席数、出塁率や得点圏打率、対投手・球種別打撃成績など、野球に関するあらゆる情報を数値化し、選手を公正に評価するためのものだ。

もちろん、数字だけで選手の実力を計れるはずもなく、あくまでも目安に過ぎないが、少なくとも客観的に評価する基準を、おそらく日本のプロ野球で初めて打ち立てたのだ。
このシステムは他球団の選手だけでなくアマチュアの選手発掘にも利用されていて、ファイターズには、日本で野球をしているプロアマ問わずに、あらゆる選手のデータが集まっていると言われている。

このシステムを活用し、ファイターズは選手の入れ替えを大胆に行った。
年間の選手人件費を抑制し(年間総額に上限額が設定されていると言われている)球団経営を黒字化する試みが行われた。

1990年代後半から次第に顕在化してきたプロ野球人気の凋落と、ファイターズの改革は無関係ではない。
プロ野球は日本で一番人気が高く、底辺の広いスポーツコンテンツだった。同時に日本最古のプロスポーツでもある。
特に昭和のプロ野球人気を支えたのは読売ジャイアンツである。
日本最古のプロ野球球団であるジャイアンツは数々の名選手を輩出し、その人気は全国区だった。昭和40年代には川上哲治監督(故人)のもと9年連続日本一という金字塔を打ち立てた。この記録は今に至るも破られていない。
1965年(昭和40年)に導入されたドラフト会議(選手選択会議)はプロ野球の有り様を大きく変えた。
ドラフト会議は、自由競争での選手獲得に伴う契約金の高騰と、有望な選手が巨人や阪神などの人気チームに偏り、著しい戦力の不均衡から、一方的な試合が増え、リーグそのものが衰退しないようにという二つのねらいがあった。
コストダウンと戦力均衡、つまりドラフトは球団経営の観点から生み出されたものなのだ。
ジャイアンツのV9を支えたのはドラフト前に入団した選手たちであり、対抗として人気のあった阪神タイガースにしても、事情は同じだった。
ドラフトはその後紆余曲折を経て、様々なルール変更が行われて現在も続いている。
少なくともドラフトは戦力均衡という目標は達成したように思う。すくなくとも40年代の巨人一強時代以降、3年以上続けて日本一に輝いたチームは存在していない。

更に90年代に入り、サッカーやバレーなどプロ化に踏み切る競技が増え始めた。特にサッカーはJリーグ(旧日本リーグ)というコンテンツを生み出し、見る見るうちに人気スポーツに成長した。
サッカー人気を牽引したのは日本代表の存在である。93年のドーハの悲劇以降、プロ化して次第に力を付けた日本サッカーは、ついにワールドカップへの出場を決める。以降、サッカーというコンテンツは隆盛を極め、底辺は拡大し、テレビ中継も続々とスタートした。サッカー専門の番組も民放各局で始まり、その立場は野球を完全に追い抜いたかに見えた。

サッカー選手は、野球選手より自由でオシャレという空気が横溢し、若い人たちを引きつけたのも事実だが、Jリーグが打ち出したコンセプトのひとつに「地域密着」がある。
旧日本リーグ時代、サッカーチームは野球同様、企業スポーツだった。
全日空、日産自動車、古河電工、日立製作所、松下電器、トヨタ自動車、ヤマハ発動機、ヤンマーなど、日本を代表する企業のサッカー部として存在していたのだ。
リーグをプロ化するにあたり、初代チェアマンの川渕三郎は、各企業をメインスポンサーとして、チームをクラブとして会社から独立させることを考えた。
当然ながらクラブとして独立すればスポンサー獲得を含めて経営的に自立しなければならず、資金難に陥るクラブが出ることも予想された。
そこで地域に根付いたクラブとして、観客をサポーターとして囲い込み、地元マスコミを含めて、地域ぐるみで自立する方法を模索したのだ。Jリーグ発足当時、チームがことごとく本拠地を構える自治体名をクラブの名前に冠したのはそのせいだ。

こうした動きを横目に見ながら、プロ野球はなかなか有効な手立てを打つことが出来なかった。
どのチームでも観客動員数が頭打ちとなり、ドル箱と言われたジャイアンツ戦は視聴率が取れなくなり、ゴールデンタイムはおろか、地上波放送から姿を消した。
何より底辺が縮小しはじめた。全国どこの街でもたくさん見られた野球少年は次第に少なくなり、優れた運動能力の若者が他競技に流れはじめた。GM補佐に就任していた吉村は、米国にいたころから「時代が変わった」と考えていたという。
「野球が国民的スポーツだった幸せな時代は終わったと思っていた」と吉村は回想している。
かつての野球少年の中から優秀な者が甲子園や六大学野球で活躍し、プロの世界に入ってくるという図式だけではもはやチームが成立せず、全国にスカウト網を張り巡らせ、優秀な選手を自ら発掘しなければ勝ち抜いていけない、そんな思いが吉村にはあったのだ。さらに人件費の抑制という課題が待ち受けている。お金にものを言わせて完成された選手を連れてくるのは不可能で、若い選手を自前で育て、戦力にしていくしかない。
そのためにはスカウティング、公正かつ正確な選手の評価、高年俸になりがちなベテラン選手の放出など、吉村は次々に手を打った。移転後初の日本一に輝いた2006年に引退した新庄剛(阪神→日本ハム)や、長きに渡り攻守でチームを牽引した糸井嘉男(日本ハム→オリックス→阪神)、小谷野栄一(日本ハム→西武)などはその典型例で、2006年に14勝を上げ、前年にテキサスレンジャースに移籍したダルビッシュ優の穴を見事に埋めた吉川光夫や陽岱鋼もFAでの移籍が決まった。
他球団から見れば功労者とでも言うべき選手を容赦なく放出する日本ハムはクールでドライなチームと見られがちだが、そうではないという。
「お金があれば選手にもっとたくさん給料を払ってあげたいけど、ウチの場合はそれは出来ない。その選手に相応しい環境をさらに求めるとなると、その条件を整えられる他球団に行くしかないという事になる。
なので、感謝を持って送り出すという感じなんだ。吉川だって糸井だって、本当はいてほしかったけどね」
栗山は日本一達成後の取材でこう話している。
事実、小谷野栄一は移籍後のインタビューでファイターズには感謝の念しかないと答えている。育ててくれた上に、快く他チームへ送り出してくれたファイターズを選手第一のチームだと評した。
主力選手になるとFA権行使は難しいものとなる。多くの場合は条件闘争なのだが、ファイターズはさらなる待遇を求める選手を情で縛り付けたり、しがらみで引き留めたりはしない。それは「選手のためにならない」と考えているからだ。
「チームの経営ももちろんあるけど、選手の人生は選手のもの。引退後の人生を球団が保証するわけでもないのに、無闇に引き留めるのは選手個人の人生に立ち入ることになってしまう。より良い環境を求める選手を気持ちよく送り出すのも仕事」(前出:吉村浩・現球団本部長)

こうしたファイターズのコンセプトは他球団から見ると少々異様に映るらしい。実績がありまだまだ使える選手をいとも簡単に放出し、ポジションのコンバートや打線の変更は日常茶飯事だ。
ドラフトもまた独特である。北海道移転後にドラフトで入ってきた選手は、一部を除いてことごとく主力選手に成長している。
中田翔、中島裕翔、大野奨太、西川遥輝、陽岱鋼などは完全にレギュラーに定着している。ドラ1は外さないというのがファイターズの強みでもある。
反面、東海大学にいた菅野智之を強行指名して入団拒否にあったりもしている。
「単にスカウティング会議で点数が一番上だった。トップだから指名しただけ。そうしないとスカウトに失礼でしょ?」と藤井は言うが、入ってこないとわかっている選手をわざわざ指名するのは勇気がいる。せっかくの交渉権をどぶに捨てることになりかねないからだ。
そこにもファイターズのコンセプトが生きている。ほしい選手だから指名する。彼らにとっては当たり前の事なのだ。
こうした考え方が成功した例もある。大谷翔平(花巻東高→日本ハム)だ。
メジャー行きを公言し、現にMLBのスカウトが大挙してやってきていた中で、ドラフト1位に指名し、説得して入団させた。決め手は二刀流で行こうというものだったようだが、これは監督としてキャリアが浅く実績も少ない栗山だから出来たことだと言う声もある。

大谷は「日本ハムで無かったら、栗山監督でなかったら、日本のプロ野球に入ることはなかった」と後に語っている。
いまや「国宝」と言われるほどに成長した大谷だが、その陰には、確固たる育成方針とでも言うべきものがある。

ファイターズは12球団で唯一育成選手制度を利用していないチームだ。支配下選手の数も64名と12球団最小。他の球団における、いわゆる「三軍」に相当する組織はそもそも持っていない。少数精鋭を地で行く感があるが、栗山体制下で初のリーグ優勝時に球団社長を勤めていた藤井(前出)は「ファイターズは育成型のチームなんです。正確なスカウティングに基づいて契約した選手を二軍で鍛え課題を克服させ、試合で試し、一軍に上げる、これが大まかな流れです。二軍での最大のテーマは自ら考える選手を作ることです。例えばある選手がこういうプレーが出来ないとコーチに相談に来る。そこではこちらからあーだこーだと言うことはない。なぜ出来ないかを自分で考えさせる。すると、こういう練習が足りないのでは?と選手が言ってくる。そこではじめてこういう練習はどうだと、提案する。なぜその練習が必要かも含めてね。選手は自分でも必死に考えてる訳だから納得して取り組める。そうして課題を克服できたと判断したら試合に出すんです。練習したんだから、成果を確認する場がないと意味がないし、選手も成長しない。一人残らず目が届くという意味では、選手は少ないほうがいいんです」
藤井の言葉には重みがある。ファイターズはセパ12球団で、最も戦力外通告が少ないチームとしても知られている。スカウティングが極めてシビアで「モノにならなさそうな選手は最初から採らない」からだ。
藤井はこうも言う。
「育成選手は必要ないんです。選手を育成するのは二軍の仕事。誰が伸びるかわからないから取りあえず採っとけというのは、監督・コーチの逃げを作ってしまうし、第一その選手の人生を潰しかねない。ウチでは出来ません」
TBSが年末に放送している「プロ野球戦力外通告ークビを宣告された男たち」で明らかなように、毎年100名近い選手が戦力外通告を受け、身の置き所を失う。
幸運にも他の球団と契約できる者もいるが、殆どの場合は引退を余儀なくされ、セカンドキャリアを歩むことになる。藤井はそのような選手を出来る限り少なくしたいのだという。
「極力事務的にやるわけだけど(笑)気持ちのいい事じゃないし、できればやりたくない。たまさか不幸にしてそういうケースがあった場合は、セカンドキャリアを応援するために出来ることはしますよ。でも基本的には支配下に置いた選手は一人残らず戦力として計算するのがウチの方針です」
球団によっては多数の選手を採用してふるいにかけ、残ったものだけをすくい上げていくやり方をとっているところもあるが、非効率的な上に、中途半端なキャリアを持つアスリートを大量に生み出す結果となる。プロ野球への門戸を狭くしているという声もあるが、もともと極めて特殊な才能を持つ者が集うプロ野球に、門戸を広くする理由はあるのだろうか?

日本ハムと正反対のやり方を取っているのがソフトバンクホークスである。ホークスは三軍制を採用し、支配下、育成あわせて保有する選手の数が多いことで知られている。反面、毎年10名以上の選手が戦力外通告を受けてチームを離れていく。豊富な資金があればそこの方法だが、昨年まで二年連続の日本一に輝いていた。
チーム内での競走は激しく、チームの新陳代謝も早い。加えて毎年ドラフトで有望な選手が入団してくる。既に在籍しているものにとって、ソフトバンクは相当突き上げの厳しいチームであるらしい。
セ・リーグのジャイアンツも状況は同じだ。三軍選手は支配下登録ではないため、NPBの公式戦に出場することは出来ない。しかしジャイアンツは三軍監督に川相昌弘を起用して戦力の底上げを図っている。川相は巨人で20年、中日で4年の選手生活を送り、その大部分を一軍で過ごした希有な人物である。特にギネス記録に載っている犠打と堅実な守備は、それだけで価値があると言われるほどの技術だった。
川相は三軍制度についてこう答えた。
「プロ野球選手になるには、ドラフトで指名されるか、テストを受けて入団するかのどちらかだけど、育成制度はテストを受ける人を球団側が選べる仕組み。いまや社会人野球もあれば独立リーグもあるという状態だから、情報をきちんと整理して、育てる選手を見極める必要がある。育成選手は支配下登録ではないけど、ドラフトで指名される選手なんだから、きちんと戦力に育て上げる事が大事だよ。いくら育成枠と言ったって、ユニフォームに袖を通してもらうわけだから、ある水準に達していない人は採らないよ。僕はそのつもりで彼らに接している。君たちはドラフトで指名された選手なんだとね」
どちらも一理ある。ホークスとジャイアンツは三軍制度を戦力底上げの方法として用い、ファイターズはスカウティング能力を戦力底上げの鍵と考えている。
ただし、ホークスやジャイアンツのやり方は、資金的に豊かなチームだから出来るというのは事実だ。
逆に言えば、いわゆるローバジェットチームには、ファイターズのやり方は大いに参考になるのではないだろうか?

事実、ファイターズは本拠地を札幌に移転してからの10年間でリーグ優勝5回、日本一2回の成績を残している。ぼぼ2年に一度リーグ優勝している計算になり、いまやパ・リーグの強豪、Aクラスの常連と言っていい。北海道移転後、トレイル・ヒルマン、梨田昌孝(現:東北楽天ゴールデンイーグルス監督)、栗山英樹と監督は3人目だが、リーグ優勝していない監督はいないほどなのだ。
さしたる大型補強もせず、ドラフトと自前の選手を戦力化することで戦ってきたファイターズの運営方針は正しいものだったと言えるだろう。
栗山現監督の方針は「徹頭徹尾選手のため」である。どこのチームの指導者でも言いそうなせりふだが、栗山ほど有言実行な監督はいないだろう。
大谷翔平に二刀流を勧め、抑えのエース増井を先発に転向させ、外野手だった近藤を内野に変え、長打力が売りだった西川遥輝を出塁率が要求されるトップバッターに起用した。トリッキーな策に見えるが、いずれも成功している。
「その選手のためになるかならないか、判断基準はそれしかない。ためになると判断したら、嫌なことでもやってもらう」のが栗山の方針である。
「プロ野球に入ってくる人は、程度の差こそあれど、皆、才能のある人たち。それを開花させられないのは監督・コーチの責任」と栗山は言い切る。だからなのか、ファイターズには、プロ野球には珍しく家族的な雰囲気が漂う。どこかアットホームなのだ。
若い選手が多いせいもあるが、妙な派閥やわだかまりもなく、非常にのびのびと野球をやっている雰囲気がある。
現在中日ドラゴンズでGMの職にある落合博満(ロッテ→中日→巨人→日本ハム、3度の三冠王に輝くなどプロ野球を代表する強打者、監督として中日を率い、5年間で3度のリーグ優勝、日本一にも一度輝いている)も、ファイターズの家族的な雰囲気を「渡り歩いた球団で最もやりやすかった」と後に語っている。

こうして球団改革に成功したファイターズは日本一の座をかけて、広島東洋カープと対戦することになった。
決戦前夜でも触れたが、黒田の引退シリーズを掲げたカープは32年ぶりの日本一に向け、地元広島市を巻き込んだ巨大な渦を作り出していた。
その渦は、思わぬ形でファイターズを飲み込むことになるのである。

(この項続く)