カルヴァンによるセルヴェの火刑 | ジュネーブに暮らす

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最近ジュネーブの宗教改革がマイブームで、いろいろ読み漁っている。

 

ジュネーブは、カルヴァンが神権政治を行った街で、これにより「プロテスタントのローマ」の異名を持ち、カルヴァンの足跡が随所に感じられる。

カルヴァンのプロテスタントのパイオニアとしての名声は、ルターと並び称される揺るぎ無いものであるが、その不寛容な恐怖政治に対する批判もまた大きく、毀誉褒貶相半ばする人物と言えようか。

 

異端を厳しく処罰し、市民生活を監視して、あらゆる娯楽を禁じ、恐怖政治を敷いたカルヴァン。以下は、カルヴァンにより処罰を受けた所業の一例だが、禁欲も度が過ぎるし、私情も挟まってるし、やり過ぎ感満載だ。

・放浪者に占いをしてもらった事件

・ダンスをした事件

・25歳の男と結婚しようとした70歳の女性の事件

・ローマ教皇を立派な人だと言った事件

・礼拝中に騒いだ事件

・説教中に笑った事件

・カルヴァンを風刺した歌を歌った事件

 

そんなカルヴァンに対する批判で最も根強いものが「ミシェル・セルヴェの火刑(1553年)」だ。

 

セルヴェはスペイン出身の医師かつ神学者で、従来のキリスト教の三位一体説を批判する冊子を出版し、カトリック、プロテスタントの両方を敵に回しお尋ね者になった。カルヴァンとも書簡のやり取りをしていたが、その中でカルヴァンの逆鱗に触れ告訴され、ジュネーブ裁判所で火刑の判決を受け、市当局により生きながら火刑に処された。処刑の時の様子は「鉄鎖で棒杭につながれ、首に縄を四重に巻かれ、両手を縛られたまま、とろ火と煙のなかで悶え苦しみ、みるにみかねた人が何人かよく燃える枯れ木を火刑台に投げつけ、臨終の苦しみを少しでも短くしてやろうとした。」という残酷なものであり、カルヴァンは異端の見せしめのために、あえてこのような刑を選んだとも言われている。

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「ミシェル・セルヴェ事件」の後、ジュネーブでカルヴァン派の地位が強化されていることから、その時代にあってはあまり違和感のない判決だったのかもしれないが、後世、その不寛容かつ独裁的な施策が批判されている。(日本は当時戦国時代であったことを考えると、そんなものかなという気もするし、ヨーロッパのその時代でも独裁的な専制君主だったら普通にやってたんじゃないかと思うけど、新たな教義を打ち立てようという聖職者の振る舞いとしてどうなのか、というところなのか?)

 

セルヴェが火刑に処された場所は、旧市街近くのシャンペルという丘で、そこに贖罪の石碑があるというので見に行った。丘というか狭い崖にセルヴェの彫刻と石碑がある。

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石碑は処刑の350年後の1903年に立てられたもので、「偉大な改革者であるカルヴァンの従順で誠意ある後継者として、良心の自由に堅く立つ者として、また宗教改革と福音の真の理念に従って、われわれは、当時の誤りを非難し、ここに贖罪の碑を建て続けるものである。1903年10月27日」と書かれている。実は、前年にジュネーブで開催された国際無神論者会議で、セルヴェを賛辞する(厳しい状況の中でも、信条の自由を貫いたことに対して?)石碑を作ろうというプロジェクトが持ち上がったが、カルヴァン派がこれを阻止し、代わりにあまりセルヴェの死の悲劇的な要素を強調しない石碑を作ったとのこと。ちなみに、1908年にはここにセルヴェの像を作る計画が持ち上がったが、カルヴァン派の反対から、結局ジュネーブには置くことが出来ず、4km先のアンヌマスというフランスの街に置くことになったのだとか。2011年には、セルヴェ生誕500周年を記念し、別の彫刻が置かれている。死から500年近くが経ってなお、物議を醸し続けている人物であるようだ。ミシェル・セルヴェは三位一体を批判しただけで、キリスト教自体を否定したわけでは無くて、無神論者会議で英雄認定されるという現状を本人が知ったらどう思うのかも、また気になるところ。

 

カルヴァンとカルヴァンを招聘したジュネーブに対する興味は尽きず、また項を改めて書きたい。