(2018年9月の旅行の記録です。)
ドゥブログニク(クロアチア)からモンテネグロ、セルビアをかすめ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BIH)の首都サラエボへ。
サラエボは、イスラム教、カトリック、東方正教会、ユダヤ教の各宗教施設が軒を連ねる、まさに「東西文化の十字路」の名の通り、文化的に多様な街だ。(宗教の分布は、1991年の紛争直前の1991年の時点でムスリム49%、正教34%、カトリック7%だったが、紛争後はムスリムの比率が増えているそうだ。)
左上から、カジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ(ボスニアで最も重要なモスク)、東方正教会、カトリック教会、ユダヤ教のシナゴーグ
15世紀、オスマン帝国支配下で、モスクを初め、学校、浴場、商取引所、公衆トイレ(!)などの社会インフラが整備され、サラエボの繁栄の礎となったとのことで、全体的にムスリム、トルコの文化を色濃く感じる。ミナレット(尖塔)を備えたモスクが数多く見られ、礼拝時にはアザーンが流れ、トルココーヒーのカフェやトルコ風の銅製のティーセットを売るお土産屋が路地を埋め尽くし、フーカーズカフェでは水パイプの煙がくゆる。西欧に慣れ親しんだ(飽きた?)私達には、モスタルに引き続き、今回初めて経験するイスラム文化は何もかも新鮮で、刺激的だった。
バルチャルシャ(旧市街の中心の職人街)
右に見えるのはモスクのミナレット(尖塔)
オスマン帝国時代に作られた公衆トイレ!
今も公衆トイレがあまりないヨーロッパにあって、16世紀にこのトイレを作ったオスマン帝国の知事の先見性を称えたい。
なお、トイレはトルコ式(和式的な形)だが、綺麗に清掃されていた。そして無料。
どこか日本家屋を思わせる家々
トルココーヒー。曳いた豆に直接お湯を注いだもので、上澄みを飲む
コーヒーはオスマントルコを通じてヨーロッパに伝播し、後にフィルターが使われるようになった
水パイプを吸うフーカーズカフェ
ここから、この地にイスラム教が広がった経緯を少し遡りたい。
バルカン半島でのイスラム教の普及は、オスマン帝国支配下(14世紀~19世紀頃)で緩やかに進んだ。オスマン帝国は当時の西欧と比較して相対的に他宗教に対して寛容で、他教徒は、人頭税を課されたり、表向きは宗教施設の建設が禁じられていたり(実態としては黙認されていた)、着る服の色が決められていたり(青、紫、黒など暗色に限定され、赤、緑、白等、明色は使えなかった)といった制約はあったが、概ね信仰の自由が認められていた。
基本的には強制的な改宗はなかったが(デウシルメを除く)、ムスリムの方が出世しやすく、人頭税を払う必要が無いといった利点があったことから、自発的に改宗が進んだ。改宗の進み方は一様ではなく、旧ユーゴの中で、大量に改宗が行われたのはボスニアのみだった。これは、ボスニアは山岳地が多く、正教会、カトリック教会の影響が及びにくかったことが背景にあるようだ。(セルビアは正教会、クロアチアはカトリック教会の強い影響下にあった。なお、スロベニアはオスマン帝国の支配を受けていない。)
バルカン半島では、オスマン帝国衰退後、第一次・第二次バルカン戦争が起き、1914年のサラエボ事件は第一次世界大戦の引き金となり、「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。第二次大戦後、西バルカンはユーゴスラビアとしてまとまるも、1991年には崩壊し、泥沼の独立戦争となった。
サラエボ事件の現場(1914年、ボスニアを統治していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が車でこの角を右折しようとした瞬間、青年ボスニア党のセルビア人青年が夫妻を狙撃し、第一次大戦を引き起こした。)
サラエボはBIH独立戦争(1992年~1995年)の激戦地で1万人以上が命を落とし、現在でもスナイパーストリート沿いのビルやアパートには銃弾の跡が生々しく残っており、戦争が遠い昔の出来事ではないことを肌身に感じた。
この長く続く戦乱の背景には何があるのか。様々な要素があると思われるが、以下個人的に興味深かった「バルカンの歴史(柴 宜弘)」の記述をかいつまんで紹介したい。
①地理的条件
・バルカン半島は、イベリア半島やイタリア半島と異なり、半島の付け根を遮断する山脈が無いため、外部からの接近が容易で、かつ古来より東西を結ぶ交通の要衝であったため、きわめて多くの民族が流入した。
・反面、南北に連なる山脈に遮られて、半島内部に居住する人々の東西の関係が疎遠になる傾向が見られた。
②近代国家樹立の過程
・イギリスやフランスでは、産業化と都市化の進行により、均質的な市民による国民意識が作られ、次第に国内の様々な民族集団や宗教上の少数派や言語の違いなどが乗り越えられ、均質的な社会が形成されていった。
・これに対して、バルカン諸民族はオスマン帝国の支配下で、長い間国家を持たない状態が続いた。産業革命も市民革命も経験することはなく、均質的な市民もいなかった。この中で、国家の樹立と近代化を早急に進める必要性に迫られ、英仏のように時間をかけて少数派の民族・宗教や言語的に異なる集団を均質化することができず、これを排除する方向に進んだ。
旧ユーゴ諸国に住む人々の太宗は元来、民族的には南スラブ人で、言語も概ね似通っていて、大きな違いは宗教だけだったという。(クロアチア語、ボスニア語、セルビア語は、日本語で言うと標準語と茨木弁、栃木弁、くらいの違いなのだそうだ。)オスマン帝国支配下では、宗教で区分されていたため、特にボスニア内では全般的に民族意識は希薄だったが、セルビア王国が独立、クロアチアがハプスブルグ帝国に組み込まれると、ボスニア領内のセルビア人、クロアチア人に働きかけるようになり、それへの対抗上、ムスリムも宗教を基盤として民族意識を強めることとなった。ユーゴ時代には、かのチトー大統領が、民族主義運動を厳しく取り締まったこともあり抑え込まれていたが、独立戦争を経て、各民族はその違いを際立たせる方向に進んでいるように見える。
クロアチアは独立後、その方言をかき集めてクロアチア語辞書を編み、セルビア語との違いを強調しているという。
BIHでは、元々ボシュニャク人(イスラム教徒)、セルビア人、クロアチア人が混住しており、異民族間の結婚も日常茶飯事だった。ボシュニャク人は元来宗教的には世俗的で、紛争前はヴェールを被る女性も稀だったそうだ。独立戦争時には、これらの民族が三つ巴の構図となったが、ボシュニャク人はセルビア人、クロアチア人のように背後に独立した共和国の後ろ盾がなく、サウジアラビアなどムスリム諸国に支援を要請した。この影響もあり、以降ボシュニャク人は宗教的に保守化し、ヴェールを被る女性が増えたという。私達には旅行客と地元民との判別がつきにくかったが、確かに街でヴェールを被っている女性は多かったし、ヴェールを売っているお店もよく見かけた。
サラエボのレストランで、BIHの民族分布図を見たが、三民族がモザイクのように入り混じっていて、とても民族ごとに居住地を分けるなどということができるものではないことがよく分かった。好むと好まざるとに関わらず、これからも一つの国で複数の民族が共存していかなければならない中、民族間の違いを強調すればするほど、平和な共存は難しくなるのではないかとの印象を受けた。
旧市街地の東端に、オーストリア=ハンガリー帝国時代に市庁舎として建てられ、後に国立図書館となったムーア風建築の建物がある。このファサードの石碑に以下のような文章が書かれていて、少なからぬ衝撃を受けた。
「この場所で、セルビア人の犯罪者たちが、1992年8月25日から26日にかけての夜、ボスニア・ヘルツェゴビナ国立大学図書館に火を放った。
200万冊以上の書籍、雑誌、文書が炎の中で消え去った。
忘れるな、記憶せよ、そして警告せよ」
BIHはボシュニャク人がマジョリティー(48%)とはいえ、セルビア人も37%とかなりの割合を占める。その首都の公共施設で、このようなsensationalな碑文(主語は"criminal"だけでよく、そこに"Serbian"をつける必要はないはず)が堂々と掲げられていることに、改めてこの国の難しさを感じさせられた。
バルカンから学ぶことができる教訓の一つとして、特に他民族地域で「国民国家ではなく、単一民族による民族国家を作ろうとすると、少数民族を弾圧・排除することになり、同胞が少数民族として虐げられることを恐れる隣国の介入を招き、負の連鎖が止まらない」ということが言えるのではないかと感じた。また、言語の違いが「方言=郷土のアイデンティティー」となるのか、「国語=国民and/or民族のアイデンティティー」となるのかは、主権国家の国境線がどこに引かれるかの違いでしかなく、多分に政治的なものであり、「民族のアイデンティティー」という概念の危うさについても考えさせられた。



































































