ジュネーブに暮らす

ジュネーブに暮らす

ジュネーブから、旅、食、子育て等について語ります。
【旅】旅しながら子供と土地の歴史・文化を学ぶ仕込み等々
【食】発酵大好き&ゆるマクロ
【子育て】親勉実践中

(2018年9月の旅行の記録です。)

 

ドゥブログニク(クロアチア)からモンテネグロ、セルビアをかすめ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BIH)の首都サラエボへ。

 

サラエボは、イスラム教、カトリック、東方正教会、ユダヤ教の各宗教施設が軒を連ねる、まさに「東西文化の十字路」の名の通り、文化的に多様な街だ。(宗教の分布は、1991年の紛争直前の1991年の時点でムスリム49%、正教34%、カトリック7%だったが、紛争後はムスリムの比率が増えているそうだ。)

 

左上から、カジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ(ボスニアで最も重要なモスク)、東方正教会、カトリック教会、ユダヤ教のシナゴーグ

  

 

 

15世紀、オスマン帝国支配下で、モスクを初め、学校、浴場、商取引所、公衆トイレ(!)などの社会インフラが整備され、サラエボの繁栄の礎となったとのことで、全体的にムスリム、トルコの文化を色濃く感じる。ミナレット(尖塔)を備えたモスクが数多く見られ、礼拝時にはアザーンが流れ、トルココーヒーのカフェやトルコ風の銅製のティーセットを売るお土産屋が路地を埋め尽くし、フーカーズカフェでは水パイプの煙がくゆる。西欧に慣れ親しんだ(飽きた?)私達には、モスタルに引き続き、今回初めて経験するイスラム文化は何もかも新鮮で、刺激的だった。

 

バルチャルシャ(旧市街の中心の職人街)
右に見えるのはモスクのミナレット(尖塔)

 

オスマン帝国時代に作られた公衆トイレ!
今も公衆トイレがあまりないヨーロッパにあって、16世紀にこのトイレを作ったオスマン帝国の知事の先見性を称えたい。
なお、トイレはトルコ式(和式的な形)だが、綺麗に清掃されていた。そして無料。

 

どこか日本家屋を思わせる家々

 

トルココーヒー。曳いた豆に直接お湯を注いだもので、上澄みを飲む

コーヒーはオスマントルコを通じてヨーロッパに伝播し、後にフィルターが使われるようになった

 

水パイプを吸うフーカーズカフェ

 

ここから、この地にイスラム教が広がった経緯を少し遡りたい。

バルカン半島でのイスラム教の普及は、オスマン帝国支配下(14世紀~19世紀頃)で緩やかに進んだ。オスマン帝国は当時の西欧と比較して相対的に他宗教に対して寛容で、他教徒は、人頭税を課されたり、表向きは宗教施設の建設が禁じられていたり(実態としては黙認されていた)、着る服の色が決められていたり(青、紫、黒など暗色に限定され、赤、緑、白等、明色は使えなかった)といった制約はあったが、概ね信仰の自由が認められていた。

 

基本的には強制的な改宗はなかったが(デウシルメを除く)、ムスリムの方が出世しやすく、人頭税を払う必要が無いといった利点があったことから、自発的に改宗が進んだ。改宗の進み方は一様ではなく、旧ユーゴの中で、大量に改宗が行われたのはボスニアのみだった。これは、ボスニアは山岳地が多く、正教会、カトリック教会の影響が及びにくかったことが背景にあるようだ。(セルビアは正教会、クロアチアはカトリック教会の強い影響下にあった。なお、スロベニアはオスマン帝国の支配を受けていない。)

 

バルカン半島では、オスマン帝国衰退後、第一次・第二次バルカン戦争が起き、1914年のサラエボ事件は第一次世界大戦の引き金となり、「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。第二次大戦後、西バルカンはユーゴスラビアとしてまとまるも、1991年には崩壊し、泥沼の独立戦争となった。

 

サラエボ事件の現場(1914年、ボスニアを統治していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が車でこの角を右折しようとした瞬間、青年ボスニア党のセルビア人青年が夫妻を狙撃し、第一次大戦を引き起こした。)

 

サラエボはBIH独立戦争(1992年~1995年)の激戦地で1万人以上が命を落とし、現在でもスナイパーストリート沿いのビルやアパートには銃弾の跡が生々しく残っており、戦争が遠い昔の出来事ではないことを肌身に感じた。

 

 

 

この長く続く戦乱の背景には何があるのか。様々な要素があると思われるが、以下個人的に興味深かった「バルカンの歴史(柴 宜弘)」の記述をかいつまんで紹介したい。

 

①地理的条件

・バルカン半島は、イベリア半島やイタリア半島と異なり、半島の付け根を遮断する山脈が無いため、外部からの接近が容易で、かつ古来より東西を結ぶ交通の要衝であったため、きわめて多くの民族が流入した。

・反面、南北に連なる山脈に遮られて、半島内部に居住する人々の東西の関係が疎遠になる傾向が見られた。

 

②近代国家樹立の過程

・イギリスやフランスでは、産業化と都市化の進行により、均質的な市民による国民意識が作られ、次第に国内の様々な民族集団や宗教上の少数派や言語の違いなどが乗り越えられ、均質的な社会が形成されていった。

・これに対して、バルカン諸民族はオスマン帝国の支配下で、長い間国家を持たない状態が続いた。産業革命も市民革命も経験することはなく、均質的な市民もいなかった。この中で、国家の樹立と近代化を早急に進める必要性に迫られ、英仏のように時間をかけて少数派の民族・宗教や言語的に異なる集団を均質化することができず、これを排除する方向に進んだ。

 

旧ユーゴ諸国に住む人々の太宗は元来、民族的には南スラブ人で、言語も概ね似通っていて、大きな違いは宗教だけだったという。(クロアチア語、ボスニア語、セルビア語は、日本語で言うと標準語と茨木弁、栃木弁、くらいの違いなのだそうだ。)オスマン帝国支配下では、宗教で区分されていたため、特にボスニア内では全般的に民族意識は希薄だったが、セルビア王国が独立、クロアチアがハプスブルグ帝国に組み込まれると、ボスニア領内のセルビア人、クロアチア人に働きかけるようになり、それへの対抗上、ムスリムも宗教を基盤として民族意識を強めることとなった。ユーゴ時代には、かのチトー大統領が、民族主義運動を厳しく取り締まったこともあり抑え込まれていたが、独立戦争を経て、各民族はその違いを際立たせる方向に進んでいるように見える。

 

クロアチアは独立後、その方言をかき集めてクロアチア語辞書を編み、セルビア語との違いを強調しているという。

BIHでは、元々ボシュニャク人(イスラム教徒)、セルビア人、クロアチア人が混住しており、異民族間の結婚も日常茶飯事だった。ボシュニャク人は元来宗教的には世俗的で、紛争前はヴェールを被る女性も稀だったそうだ。独立戦争時には、これらの民族が三つ巴の構図となったが、ボシュニャク人はセルビア人、クロアチア人のように背後に独立した共和国の後ろ盾がなく、サウジアラビアなどムスリム諸国に支援を要請した。この影響もあり、以降ボシュニャク人は宗教的に保守化し、ヴェールを被る女性が増えたという。私達には旅行客と地元民との判別がつきにくかったが、確かに街でヴェールを被っている女性は多かったし、ヴェールを売っているお店もよく見かけた。

 

サラエボのレストランで、BIHの民族分布図を見たが、三民族がモザイクのように入り混じっていて、とても民族ごとに居住地を分けるなどということができるものではないことがよく分かった。好むと好まざるとに関わらず、これからも一つの国で複数の民族が共存していかなければならない中、民族間の違いを強調すればするほど、平和な共存は難しくなるのではないかとの印象を受けた。

 

旧市街地の東端に、オーストリア=ハンガリー帝国時代に市庁舎として建てられ、後に国立図書館となったムーア風建築の建物がある。このファサードの石碑に以下のような文章が書かれていて、少なからぬ衝撃を受けた。

 

「この場所で、セルビア人の犯罪者たちが、1992年8月25日から26日にかけての夜、ボスニア・ヘルツェゴビナ国立大学図書館に火を放った。
200万冊以上の書籍、雑誌、文書が炎の中で消え去った。
忘れるな、記憶せよ、そして警告せよ」

 

BIHはボシュニャク人がマジョリティー(48%)とはいえ、セルビア人も37%とかなりの割合を占める。その首都の公共施設で、このようなsensationalな碑文(主語は"criminal"だけでよく、そこに"Serbian"をつける必要はないはず)が堂々と掲げられていることに、改めてこの国の難しさを感じさせられた。

 

バルカンから学ぶことができる教訓の一つとして、特に他民族地域で「国民国家ではなく、単一民族による民族国家を作ろうとすると、少数民族を弾圧・排除することになり、同胞が少数民族として虐げられることを恐れる隣国の介入を招き、負の連鎖が止まらない」ということが言えるのではないかと感じた。また、言語の違いが「方言=郷土のアイデンティティー」となるのか、「国語=国民and/or民族のアイデンティティー」となるのかは、主権国家の国境線がどこに引かれるかの違いでしかなく、多分に政治的なものであり、「民族のアイデンティティー」という概念の危うさについても考えさせられた。

(2018年8月の旅行の記録です。)

 

モスタルからいよいよドゥブロブニク(クロアチア)へ。

 

ドゥブログニクはその美しさから「アドリア海の真珠」と呼ばれ、恐らく旧ユーゴスラビア圏では、日本人が最も多く訪れる観光地ではないか。丘の上から眺めると、青く透き通る海に城壁が張り出している様子が独特で、「真珠」という呼称にも頷ける。

 

15世紀~16世紀頃に貿易港として栄え、その中世的な面影を残す赤い屋根の特徴的な街並みは、ジブリの「紅の豚」「魔女の宅急便」の舞台のモデルの一つとも言われている。(今回、この2作は予習として息子も一緒に観ていった。)

 

「紅の豚」で航空艇が浮かんでそうなドゥブログニクの港

 

1991年からのクロアチア独立戦争の際には、セルビア側の攻撃で旧市街地もかなりの被害を受けたそう。よく見ると屋根の赤瓦の色が違っていて、くすんだ色の屋根は戦争以前から残っているもの、鮮やかな色の屋根は戦争時の爆撃で損壊し、その後再建されたものらしい。ぱっと見た感じでは、7割程度が新しい屋根のように見受けられ、被害の大きさが伺えた。戦争による損壊が無ければ、全体にもっとくすんだ屋根の色になっていて、街の印象も違ったのか思うと、曰く形容しがたい気分になった。

 

 

城壁ぐるっと2kmを歩く

 

城壁からポカール要塞と美しい入り江を臨む

 

ひたすら美しい海!

 

オノフリオの大噴水

 

ピレ門
夕方になると衛兵が出てくる

 

ドゥブログニクの港で水球大会
赤い煙は煙幕?

 

いちいちいい雰囲気の裏通り

 

 

 

(2018年8月の旅行の記録です。)

 

怒涛の旧ユーゴ諸国ロードトリップ。10日間、3500km。

旧ユーゴスラビア地域のうち、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビアの5か国を訪ねた。

初日は、ジュネーブからサンマリノ共和国経由、イタリアのアンコーナ港まで走夜行フェリーに乗って、翌朝クロアチアのスプリト港に到着。

 

サンマリノは世界で5番目に小さいミニ共和国で、共和国としては世界最古。ヨーロッパにはこういうミニ国家が結構あって、背景は様々だけど、ここはバチカンと同じく、「宗教的意義からある地域に特権的な地位が認められ国家となっているもの」らしい。観光収入でしっかり儲けていて、一人当たりGDPは世界14位とかなり高い。なんの予備知識も持たず、道すがら立ち寄っただけだったけど、断崖にそそり立つ城砦がまるでファンタジー映画に出てきそうな中世の城という風情だった。写真は、第1の砦グアイタ。

 

イタリア、アンコーナ港からクロアチア、スプリット港へのフェリーに乗る

 

アンコーナ港でフェリー待ちの車列。
ノーマークだったけど、なんだかここも史跡が立派な街。
左手前がローマ時代の遺跡「トラヤヌス帝アーチ」、右奥が「チリアーコ大聖堂」

 

中央が「聖ドミニコ教会」、左奥が「チリアーコ大聖堂」

 

フェリーの船室
ほとんど揺れず、寝心地は悪くない

 

クロアチア、スプリットに到着
スプリットはローマ帝国のディオクレティアヌス帝が退位後住んだところで、とても良い街並みだったのだけど、フェリーが3時間も遅れたお陰で、ゆっくり見ることは叶わず

 

当初はスプリットからドゥブログニクに直行する予定だったが、Facebookで友人がボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタル在住と知り、急遽モスタルを経由することに。モスタルに行きすがら、教えて頂いたクラヴィッツェの滝で泳いで魚と戯れ、早くもテンションマックス!

 

モスタルではスターリ・モストというオスマン朝時代に建設された橋で友人一家と待ち合わせ。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BIH)は、北のボスニア地方と南のヘルツェゴヴィナ地方に分かれ、モスタルはヘルツェゴヴィナの中心地。BIHは、従来ムスリム人、セルビア人、クロアチア人が混住しており、モスタルはムスリム人とクロアチア人の居住地域の境界に位置する。1991年の旧ユーゴスラビア崩壊後、BIHは激しい独立戦争を戦い多くの犠牲を出したが、その際にこのスターリ・モストもクロアチア側に破壊された。その後、ユネスコの協力の元、トルコ企業によって2004年に復元されたそうだ。

 

以前、何かのテレビ番組で、ここの橋からネトレヴァ川に飛び込むのが大人になる通過儀礼、という話を見た気がするのだが、記憶が定かではない。ネトレヴァ川は流れが早く、特に最近ダムが出来てから水温が低く、飛び込むのは結構危険が伴うとのこと。今やスターリ・モストからの飛び込みはビジネス化している感があり、煽り役が煽るだけ煽って観客から金を取り、ある程度集まると飛び込み役が出てきて飛び込むのだとか。私たちが訪れた時もその一部始終が見られた。

 

私にとっては、ムスリムがマジョリティーの地域に来るのは今回が初めてで、スターリ・モストで聞いたアザーン(イスラム教における礼拝への呼びかけ)の音楽的な響きに心を鷲掴みされた。

 

モスタルの街並み

毎週「青天を衝け」を心待ちにしている息子(小2)と、よりドラマを楽しみながら歴史の学びを深めたいと温めていた企画をようやく実現。久々に手作り教材を作りました。歴史人物カードのイラストとドラマのキャスティングを対照させ、出身の県のシルエットも付けました。

 

 

大隈重信は、息子のたっての希望により「なのであーる」の顔をチョイス。

 

元ネタはこちらです。

 

その他、歴史、植物などの手作り教材はこちら

録画していた「歴史探偵:渋沢栄一inパリ万博」」を見ていたら、日本が初参加のパリ万博で出品した金屏風が、スイスにあるとのこと。

1人、立っているの画像のようです

 

なにー、と思って調べてみたら、ジュネーブ旧市街にあるバウアー財団東洋美術館に展示されているとわかった。

https://www.fondation-baur.ch/jp/9

 

ここ、東洋美術を欧州で見なくてもいいよね、と思って行かなかったところだorz お膝元でこんな大事なものを見落としてたとは大失態。。。

ジュネーブにいらっしゃる皆様、どうぞお見逃しなく!

 

この金屏風、番組では以下のように紹介されていた。

・徳川の威信を諸外国に示すため、相当気合を入れて特注されたもの

・通常の屏風よりもサイズがかなり大きく、万博向けに特大サイズで制作されたもの

・紙ではなく絹をキャンバスとすることで、独特の風合いを出している

・金泥という金箔を膠で溶いたものが使われている

 

金屏風については、こちらでも詳しく紹介されている。

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6148&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

ちなみに、同じくパリ万博に出品された品川寺の大梵鐘は、一時期ジュネーブのアリアナ美術館に置かれており、その後品川寺の求めに応じて返還されたが、現在は品川寺が新たに鋳造し贈呈した梵鐘がアリアナ公園に置かれている。

http://www.evam.ne.jp/honsenji/bonsyou.html

コロナ前、ヨーロッパ各地を旅し、旅をきっかけとして歴史を学ぶ機会を得ました。

今回は、そんな歴史紀行をまとめてみました。

 

 1. 古代ギリシャ 

 

古代ギリシャ発祥の地、クレタ島のミノス王、それを描いたダンテの新曲、ミケランジェロの最後の審判。

 

ギリシャ都市国家が結んだ「デロス同盟」の本拠地が置かれたエーゲ海の島、デロス島

 

 2. 第一次・第二次世界大戦 

 

ポーランド&バルト三国旅行で学ぶ「第二次世界大戦」と「ユダヤ」。杉原千畝の「命のビザ」

 

スウェーデンのキルナ鉄山とノルウェーのナルヴィク港に見る第二次世界大戦の歴史の綾

 

小説「暗号名 スイス・アカウント」から読む、スイスが第二次大戦で「中立」を守り抜いた道

 

イギリスの第一次大戦終戦記念日に見る、イギリス人にとっての「第一次大戦」と「第二次大戦」

 

 3. イタリア 

 

ローマ帝国におけるキリスト教国教化の陰の立役者、ミラノ司教聖アンブロジウス

 

ミラノのドゥオーモ「聖バルトロマイ(バルトロメオ)の皮剥ぎ像」に見るルネッサンス期の解剖学と芸術の関係

 

 4. バルカン半島 

 

コソヴォ:修道院に見るコソヴォ紛争の爪痕

 

アルバニア:街並みとワインに見る共産主義の痕跡

 

 5. スイス 

 

スイスの地理から、直接民主制、金融業・製造業の発展を読み解く

 

サンゴッタルド峠の所産たるスイス

 

 6. ジュネーブ及び近郊 

 

ジュネーブを牙城としたプロテスタントのパイオニア、カルヴァンの不寛容な政策

 

サン・ピエール大聖堂地下遺跡で、先史時代、ローマ時代の歴史を辿る

 

最後の神聖ローマ帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃エリーザベト

 

18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールの作った街、Ferney-Voltaire

 

三年間のジュネーブ生活を終え、日本に本帰国することとなった。

コロナ下での帰国は、PCR検査に、結果待機に、二週間隔離に、とまさに非常事態。

状況は刻々と変わっていくものの、現時点での状況をシェアするのも何かの役に立つかもしれないと思い、帰国の一部始終を書いてみることにした。

 

厚生労働省の情報はこちら

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_00098.html

 

■ジュネーブ空港

  • 空港内のレストラン、ショップなどは、ちらほらあいている、という感じだった。
  • 出国時には特別な手続きは特に無し。
  • マスク着用は「強く推奨」。

■トランジットのフランクフルト空港

  • ジュネーブ空港と比べると、かなり店が閉まっていて、キヨスクくらいしかあいていなかった。
  • マスク着用は「義務」。

■機内(ANA)

  • 数か月前に帰国した人からは、空港の設備が閉まっているためか、機内食でまともなものが出ないと聞いていたが、ほぼ通常通りの内容に戻っていたのではないかと思われる。
  • マスク着用は「義務」(食事時を除き)。

■羽田空港

  • 空港に飛行機が到着しても、PCR検査までの誘導準備のためか、機内から外に出るまでにはかなり待たされる。
  • 空港では完全に他の人と導線が分けられていて、まずはPCR検査場まで通される。
  • PCR検査は家族はまとめて受ける。頭を動かしたり、腕で払ったりしないように、念のため子供は抱っこして、腕と頭を押さえるようにと言われた。さして痛みは無かったと思うが、変な感触があるからか、終わった後ちょっと子供は涙目になっていた。
  • 検査が終わったら、待機場所へ。自宅、実家などに滞在する場合は、手続きが終わったらすぐに帰って滞在先で検査結果を待つことが出来るが、ホテルなどに滞在する場合はPCR検査の結果が出てからでないと帰れない。(いずれも陽性と判明した時点で、すぐに入院)
  • 我々はホテルでの宿泊だったため、空港でPCR検査の結果を待たなければならなかった。空港に到着したのは8:30 で、「遅くとも夜までには帰れます」と言われて長丁場を覚悟したが、結果的には14:30くらいには無事陰性の結果が出て、空港を出ることが出来た。
  • 待機場所はかなり広くて人はまばら。大きな銀マットと毛布を借りることが出来、床で仮眠が取れたのは有難かった。
  • ご飯の時間にはお弁当と飲み物が支給された。
■空港からの荷物の発送
  • 本帰国で大量に荷物を持ってきたため、空港から宿泊先まで送る必要があったが、事前に調べた時は空港のヤマト運輸は閉鎖しているとのことで、どうなることか気をもんでいた。
  • 結果、日本郵便、ヤマト運輸、日通(名称はANA、JALの名前を冠していて、違う名前になっていた)の窓口があいていて、無事発送することが出来た。
  • コロナのため、重量を30㎏に制限していた。(ANAの重量制限は32㎏だったので、容量がオーバーしているものがあり、日本郵便の窓口で詰め替えをした。)
  • カート5台分くらいで、とても家族3人ではもちきれない量だったが、発送窓口まではグラウンドハンドリングの係の方が運ぶのを手伝ってくださり、大変有難かった。
■空港から宿泊先への移動
  • 公共交通機関は使えないので、移動手段は家族に自家用車で迎えに来てもらう、レンタカーする、ハイヤーを頼む、等。
  • 我々はハイヤーをお願いすることにした。帰国直前まで準備でバタバタしていて、ようやく前夜になってから探し始め、既に予約がいっぱいと言われたところもあったが、何とか予約を取ることが出来た。一体何時になったら空港を出られるのかこちらも検討がつかないが、ハイヤー会社のほうもその辺の事情はわかっていて、検査が終わり次第電話してください、とのことだった。
■宿泊先での2週間隔離
  • PCR検査の結果が陰性であっても、潜伏期間を考慮して、2週間は自主隔離が必要。
  • 宿泊先など、虚偽の情報を申告した場合には、罰金刑などに処せられるとの説明があった。
  • 隔離期間中は、「不要不急の外出を避けるように」とのこと。
こちらはあくまで2020年7月19日時点での状況なので、最新の状況については改めて確認頂ければと思います。
現在海外と行き来する方は少ないかと思いますが、本帰国などで日本に戻られる方の参考になれば幸いです。

#7日間ブックカバーチャレンジ 2日目

 

神曲(まんがで読破)

この本を買ったきっかけは、バチカン美術館の予習。
バチカン美術館の数あるマスターピースの中でも、特に息子(当時5歳)と見るのを楽しみにしていたのがミケランジェロの「最後の審判」。
 
この絵画の右下の地獄の絵がダンテの神曲を参考にしているというので、マンガを買って息子に読み聞かせをしたら大ヒット。子供心に何だか興味深いようで、せがまれて何度も読み聞かせをさせられた。「最期の審判」以外でも、神曲を下敷きにしている絵画は多いし、ハリポタの三頭犬もここに出てくるケルベロスがモチーフだし、神曲を知ってると何かと由来が分かって面白い。

 

息子的に、「最後の審判」で一番面白いのはもちろん右下のミノス王。儀典長にイチャモンつけられて怒ったミケランジェロは、このミノス王の顔を儀典長に似せて描いて、急所を蛇に噛ませるという暴挙に出ている。バスルームトーク好きの男子にウケないはずがない。

image

 

ミノス王と言えば、ミノタウロス伝説で有名な、クレタ島のクノッソス宮殿を作った王。その王がなぜ冥界にいるのかというと、ギリシャ神話の中で「ゼウスから与えられた正義の法に則り、賢明に国を治め、公平に裁いたため、死後『地獄の裁判官』の地位を与えられた」からなのだそう。(クレタ文明は、所謂古代ギリシャ文明よりも古いため、ゼウスから与えられたというのは当然後付け。)初め神曲を読んだ時は、何でここでクレタの王が出てくるの?と思ったけどそういうことだったのね。

 

ちなみに、ミノス王は「世界初の裁判官」であることから、オランダのハーグ国際司法裁判所の裁判長の椅子は、クノッソス宮殿の玉座を模しているのだそう。ミノス王やるな!

(クノッソス宮殿の玉座)

 

クノッソス宮殿は、紀元前2000年頃から作られたものだが、去年夏に行ったときには、その高い文化、洗練された行政システム等に感嘆させられた。

 

 

ペロポネソスを中心とする古代ギリシャにとって、クレタ文明はギリシャ文明発祥の地ではあるが、クレタ文明全盛期にはアテネのあたりの人たちはミノス王に朝貢していたとも言われていて、その複雑な関係が、「冥界の裁判官」という微妙なポジションに反映されているのだろうか。

スイスはロックダウン緩和で今週から隔日で登校が始まったが、まだ半分は自宅学習。

 

息子(6歳)とのホームスクーリングは、池上彰バリに「いい質問だね!」を連呼し、質問が質問を呼び、ついつい脱線しがち。
先日の脱線が特に面白かったので、備忘録。

 

オンライン絵本サイトで"Earth's Water"という本を読んでいた時のこと。「氷の形態での水はほとんど北極・南極にある」という件から脱線スタート。

 

 

 

 

 

「なんで南極には大陸があるのに、北極には大陸が無いの?」
⇒パンゲアからローラシア、ゴンドワナ大陸を経て、現在の大陸配置になり、たまたま北極のところには大陸が行かなかった。

 

「ローラシア大陸って、ロシアがあるからそういう名前なの?」
⇒「ローレンシア」大陸(北アメリカ+スカンジナビア+グリーンランド、名前はセントローレンス川から)+「ユーラシア」大陸で「ローラシア」という名前になった。

 

「恐竜の時代は大陸はどうなってたの?」
⇒比較的現代の大陸配置に近づいているけど、陸地面積がかなり狭い
⇒その時代、気温は今より10度~15度高く、海水面が高かった

 

「恐竜は暖かい時に住んでて大きかったけど、マンモスとかホッキョクグマは寒いところに住んでて大きいよね?」
⇒ベルクマンの法則(恒温動物は、寒いところに住んでいるほど体重が重い)の動画を見ながら説明

 

激しい脱線で、課題が全然進まないけど、こんなに一緒にいられる時間が長いのも今だけなので(コロナ次第ではそうでもないかも!?)、寄り道を楽しもうと思ったのでした。

#7日間ブックカバーチャレンジ 1日目

 

恥ずかしながら、これまでよく読書していた時と言えば、学部・大学院時代くらいで、社会人になってからは仕事の忙しさにかまけ、特に子供が生まれてからは、仕事と子育てで常にキャパオーバーで、読書する心の余裕が全くなかった。

 

そしてスイスに来て久しぶりに訪れたお一人様タイム。折角ヨーロッパにいるのだから、土地のことを勉強しよう、と関連する書籍を漁り始め、久々に読書の楽しさに目覚めた。また、子供と一緒に旅行を楽しみたい一心で、ヨーロッパの歴史、美術等について学べる本を探すことにも精魂傾けてきた。

 

だいぶ不定期になりそうですが、何かの参考になればと、その中で我が家にヒットした本を紹介していきたいと思います。

 

一冊目は、「私のスイス」。
著者は犬養毅の孫の犬養道子。

 

 

 

 

この本は、スイスに住むことが決まった時に、夫が在住経験のある大先輩から「スイスを知るならまずはこの本」、と紹介されたもの。

 

それならとスイスに来てからすぐに読み始めたものの、実は2度ほど途中で挫折している。とにかく地理が分かりづらく、スイスの地名が山ほど出て来て、話の筋を理解するには、場所を特定することが重要なのに、地図が著者手書きのシャビーなものしかついておらず、本に出てくる地名も全然カバーしていないので、なかなか頭に入ってこない。(ちなみに、夫は、三度の飯より地図が好きで、こちらに来てからというもの、暇さえあれば1/25万のスイス地図を眺めては「あの谷に行きたい」とか「あの峠に登りたい」とか妄想を膨らませているので、この本に出てくる地名もすぐに特定できるようになり、何度羨んだことかしれない。)

 

3年目になり、だいぶスイス国内を旅行したりで、地理が頭に入ってきて、今なら読めそう、と三度目の正直でようやく読破した。雪深い谷から如何にゲマインデ(共同体)が生まれ、直接民主制につながったのか、氷河に侵食された貧しい国土で、傭兵になるしか食う道が無く、如何にそこから金融、機械工業の発展にこぎつけたのか、欧州がどこも王・諸侯によって治められていた時代に、欧州がどこも王・諸侯によって治められていた時代に、如何にゴッダルド峠を擁する原初三州のみが民自治を実現できたのか。地理から歴史の必然性を紐解く視点に目が開かれる思いだった。

 

スイスの地理に明るくない方が読まれる際には↓こちらの本の地図を横に置きながらがおススメです。

 

スイスの歴史ガイド

https://amzn.to/35W1K4M