MAITEN
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Whole Foods

そうそう、Whole Foods。なんと、昆布茶。

iPhoneの写真はどうしても、横向きに撮らないと真っ直ぐにはさせない、っていうのがWebLogの方針かな?そんな馬鹿な。後でちょっと調べてみる。
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買い出し

久しぶりに更新。

前回は写真が上げられず、今回はサイズ小さくして上げたら横向き。うーん。まあ誰も見ていないので良いけれども。愚妻が日本からやってきたので、取り敢えず家具とかの買い出しに行った。何か時間が経つのが早いのだけれども、土曜日にやって来て、その日に日本食料品店とかで食料品とか身の回りの物を買い、Bed Bath & Beyondでゴミ箱とか買って、Shop Riteで猫のえさとか買って、最後は近くの高級Glosseryで果物とか買った。

翌日はElizabethのIKEAに行って、テレビ台とコーヒーテーブル買って、BBBで靴立てとゴミ箱とドライヤー買って、Whole Foodsで生鮮食料品少し買って、また、Shop Riteで飲み物とか買った。

うーん。今まで2ヶ月何してたんだろ?

写真はIKEAの正面と朝ご飯。写真全部で250円くらい。感動的に安い上、家具を買うとただになる。凄い世界だ。

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等々力渓谷再び

久しぶりに等々力渓谷。なんと、写真が重すぎてあげられなかった。やりようがあると思うのだが、面倒くさい。ともかく等々力渓谷。最初にブログ書いたのが真冬の等々力渓谷だった。

「ここまで落ちれば良いでしょう!」というのは、洗剤の宣伝に出てくる人の台詞だ。良くできている。日本人の仕事の仕方そのものだ。何だか分からないが、ここまでやれば良いでしょ?っていう、感じ。凄くしっくり来るよね。完全にできました。どうですか?ではなく、ここまでくれば、まぁ、良いでしょ。と。

大企業で仕事していると、本当にそういう世界で、誰も決めないし、偉くなると下の人間に向って、どうするんだ、お前!みたいな、事を言う。

これはこれは

久しぶりに、4年前の自分の文章を見た。凄いね。その当時は、ベンチャー企業で仕事していた。全部細かくは書けないけれども、自分の45年だかの人生の中では、割合にバンピーな時期だったと思う。疲労が溜まって喘息になったし。今は、大組織に戻ってのんびりしている気もするし、マインドセットは全く変わっていない気もする。


早起きして、仕事しようとしているのだが、どんな作業でも最初が一番きつい。負荷がかかる。ぐずぐずして、コーヒー飲んだり、音を出してみたり、インターネットアクセスがあるとたちが悪くて、それで何時間も無為に時間をすごしたりする。そこで凹まずに、ぐずぐずでも仕事を始めてみると、次第に仕事する気持ちになって作業が進んだりする。そんな難しく言わなくても、ただ怠け者なだけなのかも知れない。


仕事が好き。と言えば聞こえは良いが、実は他にやることがなくて、唯一の自己満足をデリバリーしてくれる事だから、仕事を好き、と信じてみているだけに過ぎない。


面白いね。

久しぶりに

4年半経っていた。
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ひさしぶりに、タイトルの画像を見て感動。ニュージャージーのトンネルダイナー。去年の夏見に行ったら廃墟になっていた。凄く体の大きなお姉さんが給仕してくれて、本当に本当に良かったのに。2004年に日本に帰ってきて、転職して、2006年にまた転職して、心境の変化があって、ブログも書かなくなり、気がつけば昔懐かしいものも、本当に古くなりすぎて形を為さなくなり。なんて。写真は麒麟山温泉。ふるさと創成資金か何かで作った狐の嫁入り館に行ったら、おじさんが、「まあ、作ってみたものの、人も入らないし。」とストレートなお話で。その時と言えば、仕事もうまくいかず、そういう理不尽な話に飢えていたので、随分楽しかった。今、落ち着いて思い出すと、全てがくだらなくも思えるし、むしろ、落ち着いている今の自分の方がよほど腐っている気もする。

社会的制裁

日本においては、昔の、村八分、今の、マスコミによる報道、である。リンチ、とも言う。

成文化されていない為に蓋然性に欠ける一方、自らの損得に関係のない限りに於いて正論に思えることに基づいているため、また、そもそもそういう権力が発動される対象は集団の極く少数であるので、大多数の人間の損得に余り関係のない場合がほとんどであるため、多数派の意見を形成するに易いところがある。従って、賛成を得やすく、(反対をされにくく)そしてまた、法律に依らない為、大変に機動的に、平たく言えばすぐに、執行されてしまう。

懲役刑なり罰金刑なりが確定するのと、マスコミに待ち伏せされ、報道され、仕事と社会的地位と友人と家族と金を失うのと、どっちが即効性があるか、推して知るべしである。「出るところに出るぞ!」というステイトメントだが、これは決して裁判所で決着をつけましょう、という意味ではない。裁判所に行く、という事実が世の中に出るぞ、それでお前は困るだろ、という威嚇であって、飽くまでも社会的制裁に依拠するものである。

従って、社会的制裁で失う物のない人間、社会的制裁を押さえつけられる人間が世の中を牛耳るのだ。

イルカショーなど

イルカショーのお姉さん。の話である。

たいてい、イルカなどのショーをもり立てるのは女性である。如何に年齢による差別をなくすのが世の潮流と謂えども、この仕事ばかりは妙齢の女性が多いようである。ボルチモアの水族館でもイルカショーを見たが、これも若い女の人だった。

だから、イルカショーのお姉さん、である。

冬のイルカショーはきつい仕事だと思う。ただ見ているだけで体全体が凍えるのに、水の中で素手でえさを上げたり、水に深くもぐったり、もぐって冷えきった身体のまま、イルカの上に立ち上がって寒風吹きすさぶ中を疾走したりする。(いや、実際に疾走、というか疾泳しているのはイルカなのだが)多分震えが止まらないはずなのに、必死に笑っていなければならない。大変な仕事だ。

僕はそれを見ていて、一体この人達の時給って、どのくらいなんだろう、失礼ながら自分の時給換算の報酬の何分の一なんだろう、とか考えてしまったりする。多分、そんな気持ちで拝見できる事が、僕がイルカのショーが好きで溜まらない理由だと思う。見下しているわけではないのだが、その距離感、が溜まらなく好きだ。

満面の笑顔を浮かべてショーが終わった後、真冬の事だったが、いわゆる「楽屋」の如きスペースで、お姉さんたちがウェットスーツのままお湯の張られた浴槽に半身をを沈めながら後片付けをしたり仲間と談笑したりしている姿を見た事がある。こういう姿を見ると本当に嬉しくなる。

ストリップ劇場の楽屋を覗いてみたくなる心理だと思う。実に下劣で不潔である。

遊園地

小さい頃、遊園地に行く事は全くなかった。親が変わっていて、そういうところに一切連れて行ってくれなかったのだ。高校生の時に友人と連れ立ってとしまえんに行ったのだが、帰る時間が一時間くらい遅くなって途中で電話したら激怒した母親は途中で電話を切った。そんな具合だったから、安心して遊園地で遊んだ記憶は社会人になってからである。

大人なの視線でしか見た記憶しかないことが理由なのだろうが、遊園地を単純に楽しいところという風に理解できない。子供をだまして喜ばすという嘘っぽさ、家族連れの財布に相談の上で成立する程度の低い益率を許容する安っぽさ、働いている人の生活感の滲む惨めさ、もの悲しさ、そんなものが僕の興味をそそって止まないのだ。

水族館

昔、サンシャイン水族館にいわしが泳いでいた。(今も、かもしれないが、ここ何年も行っていないので)今でも思い出せるくらい、そのいわしがおいしそうだった。

葛西水族館が開館して一週間くらいで見に行った。まぐろが泳いでいた。これもおいしそうだった。水槽に顔を押し付けて見入った。

ボルチモアの水族館に行ったら、鮫がいた。かまぼこが頭に浮かんでおいしそうだった。

荻原朔太郎の詩の一節

けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に——おそらくは幾世紀の間を通じて——或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

今週末、金沢八景の水族館に行こうと思う。

東京都美術館

上野の東京都美術館に行った。西洋美術館の新館と同様、前川国男の設計だ。僕が建築の良し悪しを語る能力がないことは間違いないのだが、この二つは大好きだ。上手に評せないのだが、段差があって、上、空、につながっているような気持ちにさせられる。その階段を上って異空間に行ってみたくなるような気分になるのだ。

正月であったので、書道展がほとんど、一つだけ現代美術の公募展をやっていたのでそこに入った。人が少なくて良かった。地下二階からの吹き抜けの展示室を久しぶりに見た。昔、油絵の具の匂いに引かれてよくここに来た。数年前から嗅覚が全くなくなってしまって、同じ事ができないのは残念だが、それでも、人の少ない美術館に飾られた現代美術の作品群を眺めるのは楽しい。

美術館を出て歩いているとこんな看板があった。

「ハトにえさをやらないでください。えさをやらない事がハトへの愛情です。」

なぜ、えさをやらない事がハトへの愛情なのか。ああした野生動物は一体、何時、えさを貰えるかわからないはずだ。だからえさがあれば必死に食べるのだ。食べ損なう事は死に直接的につながったりするのだ。従ってえさを貰える機会が増える事、これが彼らの生命を延ばす縁になるのではないか。その機会を減ずることが愛情であるとする根拠は一体どこにあるのか。既に十分にハトはえさを貰っていて、これ以上は肥満になるということなのか。ありえないと思う。

「ハトが寄ってくると糞を落とします。迷惑なんです。掃除にはお金がかかるのです。そのお金、払ってくれますか。払ってくれませんよね。だったらハトが寄ってこないよう、えさをやらないでください。」

と書いて、何が悪いのか。なぜ「愛情」などという手あかにまみれた汚い言葉で事実をねじ曲げるのか。なぜそういう虚偽の掲示を許容するのか。