15 道鏡と孝謙天皇の子! 私の感想2 | 江戸手描き友禅「染工房 まいむらさき」のそめいろ日記

江戸手描き友禅「染工房 まいむらさき」のそめいろ日記

栃木県小山市でそめもの教室の講師をやっています。
染め物のコトや、じんくん(秋田犬)のコト、歴史、芸術、美術、日々の色々を綴っていきます。

染師・まいまい です


古の御代・・・
許されざる間柄に禁断の花が生まれたという・・・


15  私の感想2

道鏡と孝謙天皇の子!

道鏡・孝謙(称徳)天皇・英親王ゆかり(所縁)の地


これまで郷土史家の津布楽 寅雄氏が
記した英親王(はなぶさ しんのう)の
足跡を追ってきました

見学を終え、感想を述べています

私の感想1に続き
私の感想2です



おおひら歴史民俗資料館 
(国内最大級の木棺 
英親王にまつわる七廻り鏡塚古墳より出土)


展示物の撮影、ブログでの公開は
館長さんの承諾を頂いております


おおひら歴史民俗資料館
http://www.ohirarekimin.com/rekimin.html






私が思いついた、
無理矢理にでもハッピーエンドにできる
下野の伝承があります


まずは伝承を簡単に・・・



道鏡は左遷先の下野薬師寺で
肩身が狭くなってしまい、いたたまれず
逃げ出しました

そして那須の
武茂(むも)の里
(馬頭町、現・那珂川町小砂)の
岩屋にかくれ住みました

ひたすら祈り続ける日々を送り
孝謙(称徳)天皇を偲んでいました

道鏡が亡くなると、里人たちは
あわれに思い、手厚く葬りました

それが馬頭町小砂の道鏡塚※の
いわれです

おしまい



この道鏡塚は道鏡が葬られた本当の
お墓だと感じます



これには他の言い伝えがあり、
小砂のそばで、同じ馬頭の地域内の
和見の唐御所横穴に孝謙天皇と道鏡が
暮らしていたというバージョンもあります

実際、穴には住まないとは
思いますが


もちろん天皇の地位は退いてますので、
都を放っておいて大丈夫か、
との心配はご無用です


また、「王子の森」と呼ばれる地域も
あります

武茂の里に孝謙天皇も一緒に
暮らし、天皇が亡くなった所でもあり、
里人がここに御廟をつくり、
これを王子の宮と呼びました

※現状は道路と畑だけで、それらしい
ゆかりのものは、ありません




さらには、これまたお隣の
茨城県東茨城郡桂村(現・城里町)は
孝謙天皇と道鏡が住んだという「皇都」の
伝説があり、川に「皇都川(こうとがわ)」と
名残があります



そう、ハッピーエンドにするならば
英親王もこっそり両親のいる里に行き
親子水入らずで暮らすのです


正史で道鏡が没したのは772年
と伝えていますが、
772年は、本当は亡くなったわけではなく
下野薬師寺の別当を辞めた年
なのではないでしょうか

いくら年齢を重ねたといえど、
下野に来てから2、3年で亡くなるのは
不自然です

移り住んだ武茂の里・皇都はいわば
隠居の地だったのでしょう



そして、英親王にもあやしいところが
あるのです

英親王について書き記した古記録に
親王も772年に没したとあるのです

奇しくも父・道鏡の後を追うかたちの
5ヶ月遅れで同年に姿を消しています

英親王の御陵と伝えられてきた
七廻り鏡塚古墳を発掘した時、
英親王の痕跡が見つからなかったのも、
そもそも、この地にはもういなかった
からではないでしょうか


親王は本来、病が癒えたら
奥州国府に行かなければ
ならないのだから、
人知れず両親と暮らすには、
療養の地で亡くなったことにするのが
上策だったのでは


千種の里人にも内緒で
親王が亡くなったことにし
お墓を作ってしまう作戦です

あえてお墓の意味合いを持たせるなら、
自分の愛用品を納めるだけでもいいわけ
ですからね

昔から、生前に愛用品を埋め、
お墓とする方法はありました

親王の従者はこの大胆な計画を
極秘で実行したのかもしれません

そういえば、親王を弔った後、
主立った二人の従者のうちの
ひとり、竹ノ内阜見(おかみ)が、
明確な理由が不明のまま奈良の都に
戻ったとされています

本当は両親の待つ武茂の里や皇都に
向かう親王に付き従い、到着後も
主人である親王に仕えていたのでは
ないでしょうか

もうひとりの従者、野原真人は
「亡くなった主人に仕える」という役割が
あるから、その地に留まったのでしょう

こうなってくると、
親王が療養のためとし、
千種の里に留まっていたのも、
親子でひっそり暮らすための
準備が整うまで時間調整していた
ようにも思えてきます

脚気の病状が最悪で絶対安静だったとして、
死ぬか生きるかの時に
広大な土地と仮殿建設が必要なのでしょうか

病状がそこそこなら、自ら歩かずとも
輿などに乗せて目的地の奥州国府、
せめて父・道鏡のいる下野薬師寺まで
行けたはずです

まあ、都を後にした時から輿や馬
だろうけれど・・・



皇子様の待遇ってこれが当たり前


現代の感覚で古を測っては
いけないとは思いますが・・・




似たような事例を偶然見つけてしまった

英親王よりさらに古い時代の
皇子様も栃木県へやって来たとき
同じく病に倒れますが、仮殿など建てず
里人の家で療養してましたよ

(3世紀ごろの垂仁天皇・大王の子、
池速別皇子は旅の途中、
現・栃木県真岡市で療養しますが
片目を失明してしまい、
都に戻るのを断念し、この地で暮らした
という・・・

この地の鹿島神社の伝承です

「片目の皇子」と呼ばれるそうです
「若田」の名の神主さんの先祖は
この池速別皇子なのだそうですよ)




それに比べ、英親王は景気がいい
療養に広大な土地と仮殿建設とは・・・

長々と整地・建設して時間かせぎ
してたのよね、絶対

道鏡と英親王のそれぞれの居住地、
下野薬師寺(下野市)と
千種の里(栃木市大平町富田)の位置も
なんだか付かず離れずの適度な距離感です

地図で見ると隣街です

連絡をやりとりするのにちょうどいい

少し離れていれば周囲もうるさくない


父・道鏡の巧妙な作戦がチラチラ
見えてきましたよ


やっぱりあやしい・・・




・・・いろいろごちゃごちゃ言いましたが
結局、今となっては全て歴史の闇の中
ですけどね・・・





1 孝謙天皇は道鏡の子を産んでいた! その名は英親王!
↑クリックすると詳細が読めます
話の意味わかります
※これがこのブログのシリーズの第一話目です


もどうぞ
↑クリックすると詳細が読めます
※このブログのシリーズの最終話から表示されますが、
無関係の記事は、はぶかれ、お話が続けて読みやすく
なりますよ!





※小砂の道鏡塚
この小砂の道鏡塚は栃木の伝承の図書で知り、
小砂がある郷土資料館に問い合わせ、
地元の方に聞いていただいた結果、
「そんな話聞いたことがない」との
ご返答があったそうです

「しもつけの伝説第7集
編集 栃木県連合教育会
発行 昭和58年1月15日」

これに、一般的に知られていない
小砂の道鏡塚が記載されています

編集にあたり、きちんと市町村に
取材をしたことが、あとがきに
記されています

原話  高野福衛 氏となっています
(この方、孝謙天皇の本名・高野姫と
同じ名前ですね・・・何か関連がありそう・・・)


編集者さんには大変失礼ですが、地名に
誤りはないでしょうか?

小砂にも岩屋はあるかもしれませんが・・・

「岩屋に住む」なら和見の唐御所横穴の
ことではないのでしょうか?




栃木県の石橋町にあった、
道鏡と共に都からやって来た孝謙天皇の女官、
笹姫・篠姫の塚も
太平洋戦争時になくなってしまう
くらいだから、時代の変遷とともにわからなくなった
のでしょうか・・・

とくに戦前・戦中は皇国史観の教育だったし
皇室をかき乱した悪僧とし、
道鏡の栃木県における
評価はさんざんでしたからね・・・

郷土史家の尾島利雄氏曰く、
当時、下野市龍興寺の道鏡塚では
小学生が塚に小便をかけ
「しょうべん塚」と呼ぶ始末だったそうで・・・


いつからあるかもわからないような、
もはや、いわれもわからない、
墓石、石仏、塔、碑は区画整理などで
一カ所に集め、すみに追いやられたり、
歴史的に見ても捨てらてしまうことも
あるので、

もともと無い話ではなく、
小砂にも道鏡塚がかつては存在したの
かもしれない・・・


※下野市龍興寺の有名な道鏡塚は
遺体が埋葬されたお墓ではありません。
塚自体も、もともと下野薬師寺にあったそうですが、
後に古からある古墳を現在の道鏡塚としました。
通常、「本当のお墓は無い」とされています。




14 道鏡と考謙天皇の子! 私の感想1
もどうぞ


大河ドラマでやってほしい! につづく・・・




当ブログの内容、テキスト、画像等の
無断転載・無断使用を禁止いたします。




ペタしてね読者登録してね