11 道鏡と孝謙天皇の子!英親王ゆかりの神社 国分寺町の川中子八幡宮 | 江戸手描き友禅「染工房 まいむらさき」のそめいろ日記

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栃木県小山市でそめもの教室の講師をやっています。
染め物のコトや、じんくん(秋田犬)のコト、歴史、芸術、美術、日々の色々を綴っていきます。

染師・まいまい です


古の御代・・・
許されざる間柄に禁断の花が生まれたという・・・


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道鏡と孝謙天皇の子!
英親王(はなぶさ しんのう)
ゆかりの神社

道鏡・孝謙(称徳)天皇・英親王ゆかり(所縁)の地


栃木県下野市
国分寺町の川中子八幡宮


国分寺町の川中子の八幡宮に
やってきました



拝殿


ここで英親王のお話・・・

英親王亡き後、従者の竹ノ内阜見(たけのうち おかみ)
と野原真人(のはら の まひと)は、
千種の里(富田)からすぐそばの山田の里に
御陵をつくり、親王の御霊を弔うための
神ノ倉大権現の社殿も一緒につくりました

そして野原の一族、末裔たちは、
代々これに奉仕して守って行きました




1 孝謙天皇は道鏡の子を産んでいた! その名は英親王!
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話の意味わかります
※これがこのブログのシリーズの第一話目です


もどうぞ
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※このブログのシリーズの最終話から表示されますが、
無関係の記事は、はぶかれ、お話が続けて読みやすく
なりますよ!








そして長い時が経ち・・・

あまりに長い時が経ちすぎたのか、
これも時代の変遷なのでしょうか

明治44年(1911年)4月9日、
英親王の御霊は
栃木市大平町の
富田八坂神社に合祀されました

また、親王の御霊がお祀りされていた
神ノ倉大権現の社殿も富田八坂神社に
移されました

更に大正5年(1916年)
ここ、
国分寺町の川中子の八幡宮に本殿として
移築され、現在も温存されています





神社への参道


ここは、どうやら裏口のようでした

どんどん前進・・・




拝殿







神ノ倉大権現の社殿は、栃木県国分寺町川中子の
八幡宮に移され、本殿として現在に至っています

画像はお社を裏から撮ったものです

この場合当然ながら、奥が拝殿、手前が本殿です

とは言うものの、神ノ倉大権現の社殿、本殿のお社は、
このお社の中に覆われるようにあります

保存のためでしょうね・・・
中はよく見えませんでした



神ノ倉大権現の社殿のお話の続き・・・

1745年富田宿に連続放火事件が起き、
神ノ倉大権現の立派な社殿も
このとき、放火され焼失してしまいました

仮殿を建て祭祀を行うも、その後、
立て続けに飢饉が起こり
再建が延び延びになっていましたが
1836年ようやく再建できました

富田宿の名工として知られる
彫刻師・磯辺家三代目の義左衛門 信秀が
見事な彫刻を奉納しています

社殿の水引虹梁に一門の特技とする
龍彫が堂々と構えています・・・・

なんですけど・・・
残念ながら見ることができません


下野市文化財バーチャルミュージアムで
内部の様子を紹介していました
どうぞ
http://www.shimotsuke-bunkazai.com/culturalassets.php?id=34





この本殿のお社が道鏡・孝謙(称徳)天皇ゆかりの、
しかも道鏡と孝謙天皇の息子(一説に息女)の
御霊のために元々、造られたモノと知る人は
いったいどれほどでしょう・・・











 
あちらの奥からが正面の参道のようです






説明書きは…
英親王についてはタブーなのか、
いっさい触れていません








八幡宮の裏口?の周辺の様子


境内は民家に直接通じてはいたものの、
全くひとけがないので
一人でのおでかけは、お勧めできません


所在地

栃木県下野市川中子165




〈参考文献〉

「とらおの富山史 二項 
通史ふるさとの神社仏閣」

津布楽 寅雄   著



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