昨日は日本中が祈りに包まれる日でした。
夕方ペンギンの部屋へ行ったら、スヤスヤと眠っていました。
しばらく様子を見ていましたが、やっぱり起こすことにしました。
そうしてテレビを付けたら、原爆ドームと広島の式典の様子を伝えていました。
いつもの毎年見る風景なのに、ペンギンは猛烈に声を上げて泣きます。
その後、吉永小百合さんの朗読会の活動や他のアーティストと共演した大規模な舞台の様子などが番組となっていました。
それを二人で見て、こちらは私も一緒に鳴きました。
原爆の事、日本人なら当たり前に知っていると思っていました。
でも流れる情報をきちんと受け止めていたかと言うとそうでもないのです。
例えば「うましめんかな」という詩があるのは知っていましたが、その深いところは知りませんでした。
生(う)ましめんかな
原子爆弾秘話
こわれたビルデングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生臭い血の匂い,死臭、汗くさ人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生(う)ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
その時の赤ん坊に吉永小百合さんは会いに行きました。
彼女もまた自分にできることをと、今年から語り部を始めたそうです。
また「原爆の子」という像があります。
子供の頭の上に織り鶴のあるあの有名な像です。
平和記念公園内ではいたる所で、色鮮やかな折り鶴が見受けられます。折り鶴は日本の伝統的な文化である折
り紙の一つですが、今日では平和のシンボルと考えられ、多くの国々で平和を願って折られています。このように折り鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、被爆から10年後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんが大きくかかわっています。
佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳のときに被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、9年後の小学校6年生の秋(昭和29年・1954年)に突然、病のきざしが現れ、翌年2月に白血病と診断され広島赤十字病院に入院しました。回復を願って包み紙などで鶴を折り続けましたが、8か月の闘病生活の後、昭和30年(1955年)10月25日に亡くなりました。
禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽にものぼります。
そのお話は海外ではアンネフランクと並ぶ有名なお話だそうで、3人が英語で書いていて、その書き方が微妙に違うのです。弱々しいものから、希望の象徴となっているものまで。
その本を読んだあめの学生が平和の募金を集めて広島に像を送っそうです。
私はそのことを何年も前にこういった番組で見たのだと思います。知っていたけれど、忘れていました。
そう。
平和って、いつも気に掛けていないと、置き去りにされてしまうものなのですね。
改めて、自分にとって大切な事は何か、忘れてはならない事は何かを思い出すきっかけとなりました。
ペンギンとふたり、病室で祈りました。
