5年前の今日朝8時前、父が肝胆管がんで息を引き取った
父は前夜から朝まで一生懸命苦しそうに息をしていたが、息が穏やかになってきたので、私は集まった叔父と母の朝ごはんを買いにコンビニへ行こうと、三階の病室から一階に降りた。一階に降りると、知り合いの看護師さんにバッタリ会い、少し立ち話しをしているところに、母から携帯電話に電話が入り、泣きながら「パパが息してない」との連絡だった。
慌てて病室に戻ると、ピーっという機械音が響き、父は穏やかな顔をして息をしていなかったが、看護師さんから「まだ声は聞こえていると思います」とお声がけいただき、「パパ大好きだよー」と大泣きしながら父をギュッと抱きしめた🫂
父の目尻からは、涙がスーッとこぼれ落ちた
異性ということもあってか、中学生あたりから子供の頃とは違った距離ができ、大人になってから恥ずかしくて言えなくなっていた言葉が、口からすっと出ていた
父はいつも家族の中心的存在で、無口だが家族をとても大事にした人だった
母も姉も私も、沢山の愛をそそいでもらった
社会人になっても、父が体調を崩すまでは、毎年家族旅行に行くほど家族は仲良しで、それを企画してまとめてくれているのも父だった
がんが悪化してからも、最後までほぼ痛み止めも使わず、とても我慢強く、家族との時間を大切にしてくれた
いつも、身を持って色々な事を教えてくれたが、死というものも、そこまでに至る過程も、身を持って教えてくれたのだと感じている
父が亡くなる少し前に病院に入院してから、私は遠方にいる姉と、父の事があり度々体調を崩す母の代わりに、父が食べられそうな食べ物を持って、仕事前と仕事の後に毎日病院に朝晩通った。亡くなる半月程前からは、私は介護休暇をとり、母と共に病室に泊まり込んで父を見守っていた。
まだ泊まり込む前の病院通いをしていた頃、父の病床で、私が涙をこらえながら「いなくならないで欲しい」と、急に父に言った事があった。
父は、「いなくならねーけどよー」と言ったので、私はウンと言って頷いた。
亡くなる1ヶ月前くらいだろうか、私が朝晩の病院通いをしている時、今度は父が「先に行ってる」と突然言った。
私はまたウンと言って頷く事しか出来なかったが、家族が亡くなっても父が先に行って待っていてくれるから大丈夫だよと言っているのだと、その言葉から感じた。
この言葉から、私達家族がもし亡くなっても、父が必ず迎えに来てくれるのだという気持ちを持つとができた。
自分の目の前の死より家族を思う父の優しさだ。
父はもともと無口だったが、入院して亡くなるまでの数ヶ月は、話すことができなくなっているようだった。
この数ヶ月は寝てる事も多く、もっと感謝の気持ちや伝えなければいけないことを父が話せるうちに伝えておけば良かったと後悔していた。
ただ、少しの時間だが、急に元気になり話すことができる時間があった。
世の中で、(よみがえり)と言われたりする時間だ。
私は、父の事があるまで、よみがえりという時間を知らなかったが、もしこの時間が気持ちを伝える時間なら、もっと多くの人に知ってほしいなと思った。(よみがえりは無い人もいるようです)
そんな私は、よみがえりの時間には結局何も伝える事が出来なかった。
最後に一言伝えられたのは良かったけど、看護師さんに会わなかったら、母からの電話に気が付かずコンビニへ行ってしまって、父の死に目にも会えなかったかもしれない。
これは、私の目線での思いで、父が亡くなってから、こうすればよかったのでは?とか、もっと父にできることが沢山あったのではと考えることも何度もあった。何が正解かはわからないが、後悔は少ないほうがいい事は間違いないと思う。
日頃から、大切な人には、伝えたい事や感謝の気持ちは口に出して伝えないとですね
明日は全員にあるとは限らないから
正直、私が余命宣告された時より、父の余命宣告の方がすごく辛かったし、過去一番悲しい思い出だけど、人の命に永遠はないから、コロナが流行る前でもあったし、父を傍で見送れた事は幸せな事なのだと今は思う。
母も姉も旦那様も旦那様の家族も、見送るまで私が元気でいなきゃ親より先にはいけないよー
できっこないをやらなくちゃ〜
バパ、まだ土産話もできてないし、心配で見送りたい人いっぱいだし、家族や友達とも楽しい時間過ごしたいし、やる事いっぱいなの。だから、迎えに来るのはあと40年後にしてほしいでーす