私は島原第五小学校の児童でした。
その半年前の11月17日に噴火した日。
その下校途中の友達との会話。
噴火のことなんてわからなかった子供達で、
『火山の温度って何度くらいあるとかな?』
『1000度くらいじゃない?』
なんていう会話をしながら、
それから、マスク、ヘルメットをもち、防空ずきんまでつくりました。
学校では避難訓練も度々ありました。
そして、6月3日。
あの日の下校途中のことも今でも覚えています。
傘が火山灰と雨でドロドロに黒くなったこと。
車の渋滞がひどくて、
近くに入院していたおばあちゃんの病院から、いつもすぐ帰宅する母が何時間も帰ってこなかったこと…
そして、その日夜から住んでいた家には帰ることはありませんでした。
避難生活がはじまり、
荷物も持たないまま、
お友達ともそのまま別れることになりました。
私は1週間ほどたってから、国見町に避難生活をうつし、
6月10日から国見町の土黒小学校に通いました。
救援物資や配給品、
お古の名前入りの文房具や、洋服を頂き、
支えられ生活していました。
その年、父の転勤も重なり、
島原に戻ることはありませんでした。
今、昨年の御嶽山や、口永良部島の噴火で避難生活をしているみなさま。
1日でも早い噴火の沈静化と、
みなさまの平穏な生活が戻ることを祈ります。