昨年来、激昂した人に激烈に罵倒される体験を何度もした。

多分大人になってからこれほど罵倒される体験はあまり一般的ではないだろうと思えるほどの激しさだ。

それはもちろん心地よいものではない。
とても嫌な気持ちにもなる。
反省すべき共感点があれば、反省したり落ち込んだりもする。

しかし、ずっとそういう気分でいるわけではないし、いまも僕は普通にこうしている。

楽しいこともたくさんあるし食欲もある。テレビをみて本気で笑う。

そして、気付いたことがある。

怒りは、怒ったその本人を不幸にするのではないか。

罵倒すればするほど自分自身の何かが壊れていくのではないか。

一度むき出しにした敵意、攻撃性は、たとえ引っ込めてももう隠せない。
取り返しはつかないだろう。

それに何よりも、引っ込めたところで、その人の内部でくすぶっているなら同じこと。

怒りの感情は、危険だ。
きっとご飯は美味しくないだろう。
夜も健やかに眠れないだろう。
それは幸せとは言えない。

理不尽なことはたくさんあるし、許せないと思える事件など、掃いて捨てるほどある。

すべてを許せるわけではない。

それでも、僕は怒りを手なずけてコントロールしたい。


僕は幸せになりたい。

自分の大切な人にも、そうではない人たちにも、幸せになってもらいたい。

そのためには、怒るよりも笑顔で生きてゆきたい。



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知的障害をもつ少年と、歩道沿いのベンチに並んで腰掛けていた時のこと。

不意に「なんか用事か!」と大きな声で呼びかけられた。

そちらを向くと、10mくらい離れた車道に、自転車にまたがった男性がいた。

「え?なんですか?」

「前を通ったらワシの方ジロジロみてなんか大きな声をかけよるやろ。二回前を通って二回とも見とるやないか。なんや!」

少年に知的障害があり、独り言を言うこと、それは誰かに向けられたものではないことを説明した上で、相手が気にしていたことを気づかなかったことを詫びた。

しかし、
「気づかんはずないやろ!あんた保護者失格やで!なにやっとるねん!」
と全く取り合ってもらえず、どんどん興奮してして大声になっていく。

殴りかかってくるのではないかと身構えたくらいの勢いだった。

少年は特に大声でもなく普通の会話程度の大きさで独り言を言っていただけであり、彼は僕と並んで座ってキョロキョロと道路を眺めていたにすぎない。
人を凝視することもない。

からまれたとしか思えなかった。

その後も大声で罵られ続けた。

話を聞いていてわかってきたのは、その人がボランティア活動をしていたことがあること、関わっていたNPO団体に何か不満があること、自分は古くから大切な活動をしてきたのに、今の人たちはなってないと思っていることなどだった。

そういう話がどっと出てきた。
自分は素人ではない。経験があってわかっている。でも近頃の世間の状況には疑問をもっている。
自分は障害をもつ人に理解があるのになぜあんたは相手にしなかったのか?などという気持ちなのかなと受け取った。

相手にしなかったのではなく、その男性がこちらを気にしていたことにはまるで気づかなかったんだけど。
歩道に居てて、車道を通過する自転車のことをそんなに気にはしないと思う。

ひたすら聞いた。

やがて音量は下がって行き、和やかな雰囲気になり、「長々と悪かったな」と、その男性は去って行った。

30分近くがたっていた。

まあ暴力沙汰にならずに済んで良かったと思いながら座ったら、また戻ってきた。

なんだなんだと思っていると、
「にいちゃん、さっきは悪かったなー。これでも飲んでーな。」
と暖かいペットボトルのお茶を二本差し出された。

その後まるで世間話のような会話を交わして、去っていった。

最初に怒鳴られた時に、同じようにキレてたらそのまま喧嘩になってたと思う。

よくわからないけど、あの人なりのコミュニケーションのとり方やったのか?

もしそうならちょっと濃すぎるかも。

ややぐったり。






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昨日は久々に用事なしの休日だったんだけど、急に出勤が必要になってバイクで出た。

いまロードスターはタイヤ待ちで使えないからね。

せっかくのバイクなのに残念なことに土砂降り。カッパを着て高速道路を急いだ。

寒いし走りにくいのだけれど、そういう「苦難に耐えている」かんじが、「あー、僕もまだ頑張れるよな」という気分を盛り上げて、悪くなかった。

今日は降雪。

いや、もういいですからそろそろ快適にお願いしたい。



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