吐き気がするほど気持ち悪かった。

2009年に、愛知県の中学校で中学一年生男子数名が実際に起こした事件を題材にされた映画だが、実際の事件では流産は起きていないのが救いだ。
ネットでは学校名と学年、クラスまで出ていた。

この前まで小学生だった「子供」が、教師に流産をさせようと企て、そして実行する。

報道された当時の関係者の発言。
「ゲーム的な感覚や友人との付き合いでしたことで、流産させようと本気に画策したわけではないと思う。」

そんな軽い感覚で具体的な行動を起こす事は、すごい決意を込めて罪を犯すよりも怖い気がする。

その重さを本当に理解しているかどうかはともかく、その行動には明確な悪意があるように僕には見える。

当時の報道はこれを「イタズラ」と呼んでいる。

謝罪させて、反省して終わり。
刑事告訴はされていない。

これ、納得されるのか。

言葉の置き換えは恣意的だと思うが、怖い。

これはイタズラではなく計画殺人の未遂事件と言われてもおかしくないのではないか。
法的には胎児は殺人事件の対象ではないらしいけど。

同様の言葉はたくさんあって、傷害事件をイジメと呼び、買春を援助交際と呼ぶ。

言い換えただけで、なんだか軽くみえる。
エンコーなんて短縮すると、もうなんだかモバゲーと変わらないみたいだ。それはないか。

流産させようと思い立った理由は、報道によると、席替えのやり方に不満があったことが原因の一つだという。

発達障害を持つ生徒と、不登校の生徒がいて、彼ら二人の周りに仲の良い生徒を配したせいで、自分の好きな席に座れなかったからだと。

席替えの不満と、人を殺そうとすることは等価ではない。
絶対にイコールで結べるはずがないものをいともたやすく結びつける。
安易すぎる。

彼らはいま16歳前後だろう。

本当に反省しているだろうか。

まるで自慢話のように吹聴したりしていない事を願いたい。

せめて、恥じて黙っていて欲しい。

幸い被害はなかった。
生き直すことはできるはず。

楽しくなりたくて「探偵はBARにいる」をその後観た。よし。


iPhoneからの投稿
歳のせいか、もともとアホなのか、僕はもの覚えが悪い。

趣味に関するいらんことは忘れないが、大事なことはすぐに忘れる。

だから忘れない仕掛けが必要になる。

仕事にしろ私用にしろ、まずは常に持っているモレスキンノートに書く。仕事ならキーワード、手順など、できるだけ詳しくメモをする。汚い走り書きで。

必要ならそれをiPhoneで撮影してエバーノートに保存する。

そして、それをもとに、片っ端からomni focus for iPhoneのinboxに入力する。次に時間軸、手順、場所、人などの関連付けを考えて、ブロジェクトやコンテキストに移す。

オムニ フォーカスというのはGTDという、物事を片付ける技術のようなものに忠実に沿ったMacのアプリケーションで、僕にはちょっととっつきにくく、けっこう高額だったけどうまく使いこなしているとはまだ全然いえない。

これと同期はさせるけれど、いまの僕は入力も整理も閲覧もこれのiPhone版がほぼ中心になっている。

複数の場所にまたがって仕事をし、家での用事なども入れている僕には、GPSを利用した場所付けのリマインダーがけっこう便利。

頭の中の気になったことをすべて書き出すというこれ本来の使用方法には全然至ってないので、まるで使いこなせてはいないけれど、日々のやることを忘れることは減ってきたので、まずはとにかく使う習慣がついてきただけでもまあいいかと、いい加減な僕はいま思っている。

これで少しは優秀になれたらいいのだけれど。






iPhoneからの投稿
障害者自立支援法の大きな問題点の一つは、障害を持つ人の暮らしを援助する活動を「サービス」として扱う法律だということなんじゃないかと思う。

「利用者」はお客様で「支援者」はサービス提供者だ。

良いか悪いかというのは人それぞれだと思うけれど。

「サービス提供者」が行う活動は、例えば食事や入浴、排泄の介助だったり、電車に乗る、出かけるというものを支えるものだったりする。

そして「サービス提供者」はその活動の対価を得る。

でも、これって「サービス」なん?
これって、人の普通に生きる権利では?

僕は、トイレに入ったりベッドに横になったりする時に誰かにお金を払った事はない。

「すべて国民は最低限度の文化的生活を営む権利を有する」って憲法25条だったっけ?

障害を持つ人が寝たり起きたり食事をしたりトイレに行ったり出かけたり。

これってそこに含まれると僕は思う。

なんでその度にお金を払わないとあかんのん?
それ、国は保障せーへんのん?
と思うのはおかしい?人の暮らしを守るために税金を僕たちは払っていると思うのはおかしいのかな。

そして、この「サービス」を媒介にして障害を持つ人と援助する人がつながっていると、「してあげる側」と「してもらう側」とか、「お客様」と「業者」っぽいつながりになる気がする。

「障害がある人もない人も、病気がある人もそうでない人も、大人も子供も、お金持ちも貧乏人も、同じこの世界で暮らす仲間の一員として、みんなで幸せになるために必要な事をできる人がやり、援助を必要とする人はそれをうける。」というような、お互い様という感じが僕は好きだ。

きれいごととか青臭いとかいわれても、そう思うのだから仕方がない。

お客様とサービス提供者ではなく、みんな仲間やん、お互い様やでって感じでやりたい。

総合福祉法、どうやろか。

その行方は、障害がある人とその関係者はもちろん、彼岸の事として関係ないと多分思っているだろう「健常者」のひとたちにだって必ず影響はあると思う。

この世の中で起きている事で、本当に本当に自分とは全く関係がない事と断言できる事、自分が思っているよりも少ないのではないかと思うのはおかしいかな。

まあ、自分にできる事はほんのわずかだし、知りたくない事もたくさんあると思うけど。







iPhoneからの投稿