今年のAV女優ドラフト会議にて、まいかりんが第一巡で指名を受けた!
まいかりんは泣きそうなくらい嬉しかったそう。俺もこのツイート見て嬉しかった。まいかりんの突き抜けた魅力、能力が評価されているのが嬉しい。
それにしてもまいかりんを一巡指名で獲得したこの小松セブンティーンとかいう新進気鋭の監督、羨ましいにも程がある。
まいかりんに心から恋をしている、恋をしているのに監督だから目の前で他の男優とまいかりんが絡むのを見なきゃいけないというのでなければ、こちらとしては心が落ち着かないのだ。
ということで、ここで小松セブンティーンがまいかりんにガチ惚れしているんじゃないか説を唱えることにする。
いや、待てよ。
これは本当にまいかりんにガチ恋してるだろ!!おい!
そうなのか!?小松セブンティーン!!
まいかりんを撮影した日の夜は、男優への嫉妬で狂うぐらいシ○ッたと言ってくれよ!
しかし!!
小松監督が本当に好きですとカミングアウトして、内緒でまいかりんと付き合うとかされると本当に辛い。
そういう展開にだけはなって欲しくないww
もうやめよう、やめよう。
小松セブンティーンの作品は確かに、まいかりんの素晴らしさを引き出している。
小松監督のまいかりん作品のテーマは、「可哀想は可愛い」である。
このテーマは、監督とまいかりんの共通の認識になっている。
「可哀想は可愛い」、人間の本能を深く抉る真理だと感じる。
小松監督の作品内で、まいかりんは男たちに陵辱の限りを尽くされる。男たちは、狂気的にまいかりんに対して自らの欲望をぶつけ、まいかりんはなされるがままに、苦痛と性的快感を受容する。常軌を逸した徹底した無抵抗は、まいかりんの可哀想さ、儚さ、可憐さが際立つ。しかし、それだけではない。
視聴後に残るのは、結局のところ汚されていないまいかりんの気高さと美しさであって、肉欲に負けた男たちの後悔の対比である。
男たちは、まいかりんを陵辱し肉体を支配する。まいかりんは無抵抗に、なされるがまま苦しみ、快感に責め立てられ、何度も逝き果てる。しかし、肉体的に堕ちたのはまいかりんであるが、精神的に堕ちたのは男の方なのだ。
作品内で登場する担任教師は、まいかりんがいじめられていることに心配し、自分を頼るように何度も声をかける。しかし、まいかりんは自ら相談することはない。特に教師を嫌ってでもない。単に必要としていないからなのだ。教師は、自分がまいかりんに必要とされていないことを気付くと混乱し、激しく憤る。この敗北感に飲みこれた時、肉体的に無抵抗なまいかりんは陵辱の対象へと様変わりする。
まいかりんを犯した男は、肉体を支配すればするほどに、純粋な愛から遠ざかっていくことを自覚させられる。
肉欲に負け、儚さに負け、道を踏み外し、本来であれば本当に大好きで愛したかった相手を陵辱の対象にしてしまった取り返しの付かなさ。
男は、「本当はただ好きになって欲しかった」という非モテ的な願望をかき消すが如く、陵辱する。しかし、それが無抵抗に受け入れられることで、結果として無限に自己嫌悪に苛まれるのだ。
ここまで書いて、ホモ・サケルを思い出す。
ホモ・サケルとは、「殺しても構わないが、神への生贄として捧げることができない存在」を指す。
ホモ・サケルは聖なる人と訳される。
まいかりんは、ホモ・サケルと同様に、「陵辱はできても、決して純粋に愛することは適わない女性」として神聖さを帯びている。
まいかりんは、聖女として決して愛することができない女性として、揺るがない存在となる。
これが小松監督の作品を見て感じた感想である。
ここまで小松監督が自覚してつくったかは分からない。
しかし、エンディングではまいかりんを清らかに演出し、「儚い存在、日泉舞香」と結んでいることから多かれ少なかれ、まいかりんを聖女として捉えていることが伝わってくる。
さて、この小松監督の描くまいかりんに何かアンチテーゼを示さないものか?
俺は、「真の絶望は希望である」としたい。
まいかりんが、自分の意志で精神的にも堕ちる作品を描いてみたい。
次の記事では、まいかりんを俺ならどういう作品を撮ってみたいのか?
無数に浮かぶ構想の中から、一つの案を書いてみたい。
まいかりんは、作品の中で自分自身の決断によって肉体的にも精神的にも堕ちる作品をつくりたい。
自分の意志で完膚なきまでに絶望した時に、理由なく湧き上がる希望を描きたい。