毒親育ちの

アダルトチルドレンを卒業して

自分未来を作るサポーター

カウンセラー💖苺花-Maika-です。

 

さ、予告通り

 

私の事を書きますね

 

タイトルを

エピソードにするか?

私の生い立ちにするか?

毒母のことにするか?

 

タイトルは書きながら

迷ってますが

 

毒母のこと にすると母の事ばかり

書くのか?と思えるし

 

あくまでも私の視点での

私の事だから

 

単純に私のこととして書きますニコニコ

 

要は私が生まれてから

歩んできた

回復するまでの

長い長い物語を書きます。

 

しっかり書きますから

根気よく読んでね~

 

虐待めいた内容

暴力の内容も出てきます

 

読んでしんどくなるかもしれません

読みたくない方は

 

ここで終わってくださいね。

 

 

私が覚えている幼少期の画像

 

・父が母に包丁を突き付けてた

 

・私が泣いて父にやめてといったら

 あっちへ行けと言われた

 

・母が逃げようとして玄関の

 ドアを開けたら父が母の

 足を引っ張って引きずってた

 ↑この様子を向いの人が見て

  私をその人の部屋に入れてくれた

 

これら、2歳半か3歳の時です。

 

この光景は今でもまだ覚えています

 

以前はこの画像を思い出すだけで

フラッシュバックして

しんどくなってたけど

今はならなくなりました

 

結構ヘビーな出来事ですよね

 

後の母からの話と

私の記憶をくっつけて

2歳半か3歳だったんだなーと

いうことです。

 

私が生まれたのは

大阪の郊外の団地です。

その団地の部屋での出来事

 

このヘビーな出来事の後

父は出て行ったようです

 

後から母に聞いた話では

「籍を抜け!」と

母に包丁をつきつけて

いたそうです

 

父が女を作って

その女と一緒に

なりたかったようです

 

もう一つ覚えている画像

 

2DKの団地の部屋で

昭和ならではの

畳の部屋に丸いテーブル

ご飯がのっています

 

父がテーブルの上にある

お茶碗やお皿などを

隣の部屋に投げ

隣の部屋は割れたお皿で

いっぱいの光景

 

最終的にはお膳をひっくり

返していた父

 

きっと、食器棚からも

出したのかしら?

 

割れたお皿だらけの部屋に

母がつま先立ちで

タンスのところに

いってます。

 

私がついていこうとすると

母が「来たらあかん」 と

 

父はずっと怒鳴ってます

 

後に母から聞いた話では

 

自分が出ていく荷造りを

母にさせていた

着替えなどを用意させて

いたらしいです

 

その後、父は出て行って

母は団地の5階の

階段から

去っていく

父を見ていました

 

出張の多い父でも

ありましたので

もしかしたら出張の

見送りかなとも

思えるのですが

 

あの時の母の表情を

覚えているので

恐らく

出て行ったんだと

思います

 

母が私を抱き上げて

階段から黙って見ていた

 

その父の後ろ姿も

覚えています

 

これらの後に

私は2歳半から

保育所に預けられて

母は働きに出るように

なりました

 

だから、ここまでの

エピソードが

2歳半までに

起こったのかな?と

思ったりしていますが

 

そこのところの

確実な年齢と事実の

確認していません

 

ただ、母の悲しい顔だけは

覚えています

 

そして

 

母が働きに行って

保育所に預けられて

保育所で

一番最後まで母を待っていました

 

もう一人

男の子と私だけが

暗くなるまで

保育所で一番最後まで

待っていました

 

その男の子と

仲良くなって

 

その男の子の

お母さんと

私の母も仲良くなって

 

日曜日に

お互いの家を

行ったりきたり

するようになりました

 

その男の子には

お姉ちゃんがいたので

可愛がってもらい

よく遊んでくれました

 

母は電車にのって

そば屋さんに

働きにいっていました

 

そば屋さんだから

土日も仕事がある時も

あって

私はお店に連れて

いかれました

 

お店の休憩室で

1人で遊んだり

時には

先ほど書いた

同級生の男の子の

家に預けられたりして

いました

 

何歳か忘れましたけど

 

ある時

お迎えが遅くなって

一番最後に

1人だけ待ってました

 

やっと母が迎えにきてくれて

 

お母さん~って

駆け寄ると

 

母はイヤリングをつけて

口紅を塗って

手にパンフレットと

ハンドバッグをもっていました

とっても嬉しそうな

ニコニコの母でしたから

私は嬉しかったのですが

 

その母を見て

「お母さんだけ

どこかに遊びに行ったんや」って

思いました

そう思ったことは

今でも覚えています

 

まだ小学校にも行ってない

私が、こう思うなんて

すごいですよね(笑)

 

後からの話で

コマ劇場に

芝居を見に行ったみたいでした

 

これが何歳かは覚えて

いないです

 

そして

その後だと思います

 

家にそば屋の

お兄ちゃんが来るように

なりました

 

そば屋のお兄ちゃんが来ると

母はとっても嬉しそうに

今でも覚えている光景は

クネクネしていました

 

そう、母は女を出して

いたんですね

これは私が大人になってから

認識したこと

 

あの時、母は女になってたんだって

 

すき焼きを作っていて

 

母が台所に行ってる時に

お兄ちゃんが

私に

「これ食べてみ!おいしいで」と

牛脂を口に入れました

 

そう、すき焼きをするときに

最初に鍋に塗って使う

あの牛脂

 

牛脂が少しとけて油の塊に

なってるやつです

 

私はそのまま口に入れました

 

母が台所から来たら

お兄ちゃんが

「ほら、食べよった」と言い

 

母は

「もう~なに食べさせてんの~」と

クネクネして笑ってました

 

母が笑っているので

私も嬉しかったです

 

それから

小さい頃はすき焼きをすると

牛脂を私が食べる~と

言って食べていました。

 

後に、「これは食べるもん

違う」と誰かに言われて

中学生くらいから

食べなくなったように

思います

 

でも、今この記憶があると

いうことは

これって虐待?って

私がどこかで思ってる

からだと思います

 

なんか、おかしいよねって

 

虐待案件だって

確信してるから

 

もちろん、本当にその牛脂が

好きな人もいて

そば屋のお兄ちゃんが

牛脂が好きだけど

好きなものを

可愛い私にくれた とも

 

とれるかもしれませんが

 

そうとってないから

今でも、なんだかなーという

記憶になってるんでしょうね

 

そして

今でもここに書くんでしょうね

 

そして

そば屋のお兄ちゃんと母が

どれくらいの期間

付き合っていたのか

どうか?は

覚えていませんが

 

そのすき焼きの日なのか?

別の日なのか?は

わかりませんが

 

もう一つ鮮明に覚えている画像

 

ある夜、寝ていると

隣の部屋から

 

叫び声のような

アンアンと聞こえます

 

私は真っ暗の部屋で

目が覚めました

 

隣にいるはずの母がいなくて

隣の部屋から

アンアン聞こえます

 

怖くなって

私は泣きだして

 

お母さん

お母さんって呼んでます

 

お母さんを助けに行こうと

隣の部屋に行こうとしますが

 

ふすまは空いているけど

食卓テーブルを

立てて隣の部屋に行けなく

してありました

 

行けないので

台所のほうからまわり

隣の部屋につながっている

別のふすまのほうから

入ろうとするけど

開きません

 

泣き叫び

お母さん、お母さんと

泣き叫びました

 

母の声で

「もう、寝てなさい」

 

そば屋のお兄ちゃんの声で

「もう、なんやねん」

 

私がまだ泣いているので

 

母が私の方へ

来ようとしたのでしょうか

 

うっすらと

母の姿が見えました

 

立ってパンツを

はこうとしている

母の裸が見えました

 

その後、母が

私のとなりに来てくれて

ギュっとして

抱きしめてくれた

 

そして、私は

寝たんでしょうね

 

この部分だけ

ハッキリ覚えています

 

 

続く