別れ | 迷子の大人たち 3

迷子の大人たち 3

~ニワトリノニワ 非公認ブログ~ 
テキトー経営者のエー加減農業日記(昔は) 最近 っぽくなくなってきた。意外とマヂメ?更生した?

5/9。いよいよ四万十からお別れである。
 
この日は絶好の五月晴れ。解体中、ほとんどの恩人たちには挨拶していたが、まだできていなかった恩人へお別れのご挨拶周りに。

 

まずは前の前の記事で後に出てくると先述しておいた寺尾さん。

 

 

寺尾さんの家は四万十川沿いにあり、後ろの堤防の下には四万十川が流れている。堤防の上に見える山は香山寺山で旧中村の街から四万十川河口までを一望できる景勝地。

 

頂上は元々香山寺という寺が建っていたらしいが今は三重塔に見立てた展望台が建っているくらい。この香山寺は空海が建てた寺らしい。

 

現在四万十市近辺には四国霊場は一つもないが、空海の建てた寺はこの香山寺と、ここから中村の街を挟んで対面の山腹にある石見寺がある。

 

石見寺は私が通っていた市民プールの近くであり、桜が綺麗なお花見スポット。この寺が山門になっており後ろの石見寺山(411m)の登山道(約2km)が続いている。

 

私も四万十市に来た当初の夏に一人で登ってみたが、真夏の低山はただ暑いだけ。頂上も全然涼しくないし、折角だからと頂上で無理やり食べた弁当を下山直後にリバースしてしまった曰くつき。ま、獣のエサになったんだろう。四万十市の鳥獣被害が増えたのは私に責任の一旦があるかも知れませんな、ゴメンね。

 

下世話な話の後になんだがこの石見寺は元々四国霊場の一つだったらしい。霊場間最長距離の四万十町岩本寺~土佐清水市金剛福寺95kmとも言われる遍路の難所だが実は中間地点にかつてはお寺があったということだ。

 

イカン、寺尾さんの話。

 

私が四万十に就農する際(2010年)に、まず徳島・香川との県境である高知県大豊町へ、それから四万十町の農業大学校へ4か月ほど立ち寄ったのだがそこで出会ったのが寺尾さん。彼も定年後東京から実家に戻り農業を始めようとしていた。

 

そこで私が就農する土地を探していると聞いて黒潮町に遊んでる土地があるから好きに使っていいよ、と。結局その土地は南海トラフ地震対策の宅地移転候補になり使うことはなかったが、彼の一言がなければ四万十市に来ることもなく、今の私もなかっただろう。という恩人。

 

興味があれば古いブログ、「就農準備編」や「農業研修編」やらを。

 

 

最後に、石見寺の下の市民プールで仲良くなったT近さん。

 

 

香山寺の近所に住むT近のオバちゃんはほぼ毎日市民プールに通い御年8×歳なのにいつも元気。農場にもよく来てくれ、来る度に野菜やら赤飯やらなんやら地元の手料理をまるで母のように小まめにくれた人である。四万十の母。

 

もう十年以上の付き合いになるな。この日も最後に弁当を作ってきてくれた。写真を撮ると言ったらソッポ向いてら。ま、ありがとーな。長生きするだろーよ。

 

あ、今思い出したけど解体作業中に9年前に事務員として働いていたR子が移転の噂を聞いて差し入れを持って挨拶に来てくれたな。有り難う。仕事が非常に良くできた田舎では貴重な存在。ネットだけじゃなくワードやエクセルにも精通している。何せ元パソコン教室の講師だ。

 

 

今回私にとっては久しぶりの別れになるが、人は本当に別れが寂しいと感じると一瞬無言になり言葉が出なくなるものらしい。そんな無言の別れを何人かと共有し得たことはまた四万十での良い思い出となり、私の心の奥に刻み込まれた。

 

黒潮の海と最後の別れを。

 

 

さよなら四万十。

 

 

その足で通り道となる高知市内へ下りた。四万十の人たちは平気で100km以上もの道を車を飛ばして週末ごとに買い物に行ったりするのだが、千葉→四国を転居時に何往復もしてすっかり運転が嫌いになってしまった私は6年前の帰省依頼高知市へ来たことはなかった。

 

その6年前も空港バスで素通りしただけで高知市内へ立ち寄るのは恐らく10年ぶりくらいになるんじゃなかろうか。

 

ともかく、最後に挨拶せねばならない人がいたので海へと。

 

 

ニュースでは聞いていたが隣に龍馬の目線で海が見られる展望台が数年?前からできていた(観光シーズン限定とか)。折角だから、というか仕方なく登ってみることに。これ登るだけで200円だか取られた。

 

 

どこを見ているのか?京都四条の近江屋で龍馬と共に暗殺された室戸出身の中岡慎太郎像を見ている、或いはただ太平洋を眺めている、などの噂がある。

 

龍馬が見ている太平洋。

 

 

太平洋とも暫らくお別れだな。

 

龍馬像のある桂浜公園の土産物屋は1年前の2023年3月に大改装されすっかり近代的で味気ない建物に代わっていた。

 

 

私が知っているココは、なにげに胡散臭い感じの闘犬場があったりして古き良き観光地の名残があったのだが。移住してきた14年前に立ち寄ったら私が小学校高学年に家族旅行で訪れた頃(40年前)とほぼ変わらなくて非常に懐かしんだものだった。

 

世の中はなんでも均一化されていくな。土産物もまさにそうだが。10年ほど前に妹の結婚式で呼ばれた沖縄の土産店に、ちんすこうのチョコ味やらマンゴー味やらあって閉口したのを覚えている。もうクッキーと変わらねーな。

 

インスタ映えだか知らんが世の中がバカみたいな烏合の衆たちのせいでごちゃまぜで地域性クソ喰らえになってしまっている。これでいいのか?

 

次に向かったのは五台山。

 

 

朝ドラですっかり有名になってしまったが、生物学を専攻した私はふるーいハードカバーの原色植物図鑑で牧野富太郎の名は10代から知っていたし、なにしろこの県立牧野植物園は歩き遍路の遍路道に組み込まれているのだ(因みに歩き遍路は入場料タダ。現在は不明)。

 

 

しかし、こんなとこだったっけ?というくらい見たこともない巨大な建築物と広大な敷地と以前とは比較にならない観光客の多さにやはり辟易しながら見て回った。

 

 

どうやら朝ドラに合わせて大改装したらしい。そんなんばっかやな。メディアが日本を壊して行く。

 

 

最後になるがお隣にある四国霊場31番札所竹林寺へ。

 

 

ここは流石に変わらない。

 

 

 

とは言え、これだけ立派になったのは歩き遍路が流行した江戸時代になってからのことのようだ。

 

五台山竹林寺は開創から1300年とのこと。

 

 

ということは西暦724年。空海(774-835)の時代より古い。調べてみると聖武天皇(701-756)が中国の五台山に似たこの地に同じく竹林寺を建てさせたということらしい。

 

周りの景色や巡る寺は変わっても、遍路の文化は変わらない。

 

 

ただひたすら歩き続けること。

 

歩き遍路を修行のように考える人が多いと思う。だが修行とはそもそも何だろうか?空海の時代には険しい山々を歩き回る山林修行が流行していた。これが密教の原点と言われる。動と静の違いはあるが只管打坐の座禅で知られる禅宗の修行・・・

 

修行とは頭と、心と身体を結びつける繋げるという非常に単純な作業のことではないだろうか。心が悲鳴をあげているのに頭が気づいていない状態を鬱という。身体が悲鳴をあげているのに気づかない状態は熱中症が挙げられる。

 

もしこれら3つがきちんと結び付けば食べ物を食べれば身体と心が喜んでいることを脳が認識しより美味しく感じることができ、体を動かすこと、モノを見ること、果ては生きていることは全て新鮮に楽しいと感じられるのではないか、と私は考えている。

 

これを即ち幸福と言うのではないか。そしてこの3つを繋げる作業が修行。修行とは個人の幸福を追求することであり、社会的な成功などの煩悩を排除して心と身体の声をきちんと聞き取る行為だとすれば?

 

 

余談だが、仏教の教えを禁欲的に行いを正しくし・・・など倫理や道徳そのものと勘違いしている日本人は多い。しかしそれはいずれもインドで生まれた密教や仏陀が開いた本来の仏教ではない。その後中国に入り、中国で発展していた主に儒教に染められ改変されたものが日本に伝わったエセ仏教である。

 

儒教は孔子の思想体系でありその実態は社会を統制する倫理、道徳、つまりは政治である。日本が、まだ豪族が地方を牛耳っており統制されていなかった古墳時代にこのエセ仏教を利用して日本を統一しようとしたという背景がある。これが飛鳥時代。

 

本来の仏教は仏陀のように山林修行から得た悟りである。即ち頭と心と身体を繋げる作業。

 

 

仏陀の像。

 

 

宗教に抵抗がある現代の日本において。遍路が宗教として認識されていない今の風潮は、逆に本来の修行、即ち幸福を追求する行為として役割は重要である。

 

そこで私は発心を支える阿波の地で遍路の接待宿をやろうと思っている。ニワトリノニワの経営理念は「みんなが本当の意味で幸せになれることを考える」第2ステージだ。

 

いつまでも、社会的な圧が強くて中々本来の幸福にたどり着けない都会なんぞに閉じこもってないでたまには1200㎞歩いてみませんか?

 

 

さようなら、修行の土佐。そして再び発心の阿波へ。

 

いつでもスタート地点で待っている。