今晩は市内の某日本レストランで10年選手会なるものがあって、
ベトナムに長くいる人ばかりが集まって
昔話に花を咲かせることになるらしい。
それもあって、昔の写真を引っ張りだしてみていると、
いろいろな思い出が蘇ってきて、感傷的な気分になる。
その中で、初めてフィリピンに行った時の写真が出てきた。
今からちょうど14年前の2000年8月。
大仰な言い方をすれば、前世紀末のことになる。
当時、私は大手商社の社員で、
ふだんは主にスポーツウェアを担当していた。
私の上司はN部長で、商社マンにありがちなとても癖の強い方だった。
N部長は日本いた時に紳士スーツの商売をかなりやっていたらしく、
ベトナムに来て、スーツ商売がないことを見て取り、
いつかやってやろうと身構えていた。
作りの複雑な紳士スーツ生産は、
ベトナムの縫製工場には最適のアイテムだということを
ベトナム市場を見ているうちに感じ取っていたのだった。
当時、我々のチームではスポーツウェアの生産が中心で、
私も専らそういう製品の生産に関わっていた。
我々が取引していたのは、
国営最大手のV社とかN社とか錚々たる顔ぶれだった。
その中で、N社は独自に紳士スーツ生産ラインを作っていた。
聞けば、チェコの顧客の要望で莫大な投資を行い、
設備を導入して、欧州向けのスーツの生産を始めたのだという。
ところが、
始まったかと思えば、1年もしないうちに生産ラインは止まってしまい、
高額のプレス機などでは、スポーツウェアの最終工程の処理が始まった。
仕事で毎日のように各工場を回っていた私に
部長は事あるごとにN社の様子を尋ねた。
N社は、品質管理面で難があり、
当時の我々の取引先の中では、
正直のところ、あまり重視していなかったので、
私は部長がN社に関心を寄せる意味が初めわからなかった。
しかし、彼はチャンス到来とばかり、
虎視眈々と獲物を狙っていたのだ。
チェコ向けスーツラインにどうやら顧客が戻ってくる気配はないと
見て取るやいなや、早速、行動にうつった。
つまり、部長が考えていたのは、
チェコ向けの紳士スーツ生産ラインをそっくりそのままいただいて、
日本向けスーツ生産に変えてしまおうということだった。
設備投資に膨大な費用のかかるスーツ生産は
初期投資の部分が最大のネックになる。
だが、N社は偶然にもチェコ向けに設備投資を行なっていて、
今やその顧客も消えてしまい、投資した設備だけが残っているのだ。
これを使わない手はない!
もちろん、チェコ向けと日本向けではスーツの作りも違うので、
そのまま日本向けラインとはならないが、
いくつかの必要な設備だけを補充してラインを改造するほうが、
0からスタートするよりずっと安くつくのは言うまでもない。
当時、ベトナム北部のフートー省でやはり日本の商社N社が
現地企業との合弁で日本向け紳士スーツ生産を始めようとしていたが、
我々の計画はそれより遥かに低リスクで運営しようというものだった。
N部長はこの計画を、
紳士スーツ最大手アパレルを顧客に持っていた大阪のA部長に投げ、
この顧客向けの専用スーツ生産ラインにしようと考えた。
しかし、紳士スーツ自体、まったく生産したことのないベトナムの工場に
勝手に生産させていたら、まともな製品は上がってくるはずはない。
そのため、N部長とA部長は話し合って、技術指導に、
当時フィリピンで日本向けのスーツを納めていたS社の起用を考えた。
S社はすでに長年フィリピンでスーツの生産をやっていたが、
人件費の高騰からストライキ等の労使問題に悩まされ始めていた。
一方、ベトナムは今でこそ、人件費の高騰が問題となっているが、
14年前の当時は米国向けのビジネスもまだ始まる前とあって、
そうした問題は影すら見せていなかった。
フィリピンで労務問題で苦しむS社の目の前に
ベトナム生産という新しい希望の餌をぶら下げたわけだった。
こうやって、
A商事向けのベトナムでの日本向け紳士スーツ生産計画の骨子が固まった。
ベトナムの大手縫製工場N社の
旧チェコ向け紳士スーツ生産ラインに若干の設備補充を施し、
フィリピンに工場を持つS社が技術指導して日本に出荷するというものだ。
この青写真ができて、
まずはN社の方々に紳士スーツ生産とはどういうものかを見てもらおうと、S社のフィリピン工場視察に同行を願った。
N社からは、
のちに社長に昇格するD副社長とH技術部長他2名の計4名、
我々の方は、N部長と私の2名。
ここに、今や日本に向けて年間80万着も出荷する紳士スーツの
ベトナム生産プロジェクトの幕が切って落とされたわけである。