いろんなドラマはいくつかの人生論をそこに含ませてある。
主人公の小原糸子が店を女手で立ち上げたころは戦前である。
その頃は各地の小さな街々が人々の集うところであった。
しかし、戦後、交通網が発達すると人の流れはより大きな街、都市へと集約されていくことになる。
なので、娘たちの世代になると人が才能がありなにかをしようと場を求める場合、より大きな街へ大阪さらに東京へ、さらには外国の大きな街へということになる。
高度経済成長期になると大量生産されさたものが、全国チェーンの店舗で販売されていくようになる。
個人商店から商店街、大型量販店と時代の技術の進歩にともない社会構造がかわり、ビジネスモデルもかわり仕事の仕方もかわってくる。
ドラマの随所に主人公が時代の感覚にずれていくことにとまどっている描写がひんぱんに描かれている。
戦前に洋装で女手で店を立ち上げ成功させる能力のある人である。
経営、判断力、胆力、美的なセンスや職人として腕、その他いろんな能力があったはずである。
もし戦後に生まれていたら地元は離れていただろう。
実際、娘たちはそうしている。これはあくまでもドラマである。
時代に早すぎても遅すぎてもいけない。その時代にあわせて適切に動く必要がある。
皿回しのように、つなわたりのように、自転車を乗りこなすようにそういう平衡感覚が大事である。
世間の顔色より時代の顔色をうかがおう。
主人公が壮年になったとき東京での事業に協力要請される。結局、家族のこともありその話をことわる。この選択はどうであったのであろう。能力があるだけに外に出て行ったほうが仕事としてはよい結果が出たかもしれない。器より大きな魚にはなれない。しかし、人生は仕事のみを大きくしていては育成していて失敗であり、バランスよく各方面、家族なども自己実現しないとまちがいであるというのが自己啓発の世界では総論正解とされている。よって、この選択は正しかったのであろうか。まあ、どんな選択をしても一長一短はある。
何かを捨てなければなにかをえられない。何かを得るために何かをあきらめなければならない。
選んだ道なら選んだ道を十分によいものとするようしていけばいい、というか責任もをもってそうしていかなければならないということか。
とかくよい人生は何かということに対する正解がないだけに難しい。





