コチラの方ではお久しぶりになるのか?もっぱら本名ブログ方ばかり更新してました。
被害は他者と比べるものではない。
それは重々承知しております。
しかし、多数の被害を受けた身としては
他者との比較ではなく、自分の被害の比較というものは当然ある訳です。
そういった意味で私は私の中での比較として意見を言ったはずが。。
ここからは個人情報抜きにして書きますが。。
親からの虐待があって、結果今の自分があると思えるかどうか?
について。。質問がありました。
これはね。。そのように思考を持って行く。と言う事はあり得ると私は思っています。
何故なら自分の為だからです。
でも、そこには落とし穴があって。その境地に至るまでのプロセスが大事で、
自ら気づく。。必要があると思っています。
例えば誰かのプロセスを知って自分が禅問答のように何度も何度も真逆の考えが浮かびその度に苦しんだ途中までのプロセスと似て非なる体験であってもどこかの共通点に気づき。。そこからああそうだそうだ。。そのような考え方も悪くない。
と言う風に気付いた形であれば身から剥がれない到達点となるでしょう。
言ってみれば答えを含めた質問になってしまうと。その至るまでのプロセスなく、皆でワイワイのうちに究極の答えであるにもかかわらず、薄っぺらな思い込みになりかねない。
とまぁそこまで論理的に考えが浮かんだわけではありませんが、
しかし、苦しみの経験をしていない。。もしくは本当に被害者の心に寄り添ってるのか?疑わしいと思しき者。。まだ人生の何チャラわからんとも見える若者が被害経験者に質問できるような内容ではないだろう?
虐待の結果、今の自分が。。ではなく、
今の自分をどう思うか?今の自分は満足か?等の質問から誰かが現状満足だと言ったとしてそれはどうしてですか?等掘り下げていけば「虐待があったからこその。。」等と言う意見が出るかもしれない。そこで進行役は慎重に慎重を期して個別質問をするさまを見せて深堀りし、場合によっては周りに質問する。。と言う手法はありなのかな?とも思う。少なくともどうしてそのような境地に落ち着いたのか?のプロセスを周りは効く事が出来るだろう。
結論を質問に組み込む形の問いでは?ミスリードや思い込ませる洗脳にもつながりかねない。。若い被害者などではそのように思い込まなくてはいけないのではないか?といった新しい呪縛をかかえこむかもしれない残酷な形の質問の仕方。。となって来るだろう。。
頭の中に何かのサイレンが鳴り出し。。ここは一丁。。真逆な強烈な意見を投入しておこうと思った。。
アンチテーゼしたくなったのです。。
被害者というものは、自分に起きた現実を直視できない。。
もしくは直視したつもりが自分の都合で深く見る事を避けている場合があります。
これは自己との対峙になります。
そしてもう一つの観点として
加害者側の親をどこまで理解しましたか?
と言う観点。。
これは加害者が親なのですから、親を何処まで理解したか?ということです。
虐待。。なのですからまさか。。殴られたから虐待と短絡的に思っている訳ではないと思いますが。。
虐待というのならば、そこには親側からの憎しみや怒りが込められた暴力という事になる筈です。
そこを直視したうえで対峙できたのか?ということです。
直視とは?
親が暴力をふるった時の状況だけではないです。
その怒り(行為)がどこから沸き起こって来るのかどうか?
色々な自助に通っていつも痛感するのはそれぞれに違う事で。。
近親姦に関する自助では↑に書いたようなプロセスを否応でも堂々巡りします。
結果答えが出ないし、その暴力が結果自分の為だった等と腐っても思えない訳です。
でもね。。私はそのように思考を持って行っています。
そうすると。。近親姦被害者である私に対して言われる事は分かっています。
「まだ親に洗脳されているのか?」と。。
まぁ、その次元ははるか昔に通過していてそれでもこの人生で良かった!
だから今の境地があるのだ。。と言う風に本名ブログの方ではキーワード「近親姦」
をまだ書かないようにしながら最近更新しているところです。
最後にこっちのブログとドカ~ンとリンクしようとは思ってますが。。
替わって、、他人からの性虐待被害者の会では
性被害という属性になるのですが。。加害者の事をそこまで考えてやらなくても
自分の心の回復はもっと単純。。。。
これを他人からの被害者に言ってしまうと反感を持たれてしまいますが。。
これは他者との比較ではありません。。
幼少期、知らないオジチャンに指突っ込まれて被害を受けた。
19歳の時、4人にレイプドラッグ被害を受けた。
57歳で女性看護師からえぐい痴漢被害を勤務中に受けた。。
と言う私が自分で受けた他人からの被害と、父親からの2年週に3回貫通まで又、その前からの12歳から貫通に至るまでの数年間軽微な近親姦被害及び幼少期から続いた理不尽な暴力も含めた親からの被害を自己の中だけで比べたものなのですが。。
その辛さはタブーでもあり、サッサと親を切り捨てられないのは「お子ちゃまですか?」といった辛辣な言葉を聞かねばならなくなります。
さて。。
親からの虐待と言う属性では???
因みに虐待の定義。。
高齢者の場合5大虐待。
「心理的虐待、身体的虐待、経済的虐待、ネグレクト、性虐待」
子供に対する場合4大虐待。
「心理的虐待、身体的虐待、ネグレクト、性虐待」
先日。。一番上に書いたアンチテーゼに対して。。
私のアンチテーゼ。。
私は暴力の虐待も受けた。。でも性虐待を受けたおかげで今の自分があるとは到底思えない。週に3回2年間。。父親からセ〇スされるわけですよ。そのおかげだと思えると思いますか?
返ってきた言葉。。
「性虐待のこと。。みんなわかりませんから。」
その言葉にちょっとカチンと来ました。少しだけね。。(苦笑)
だったら「親からの虐待があって、結果今の自分があると思えるかどうか?」
こんな質問するなよ。。ってね。。
それでいいました。。
「ならば暴力だって、手が腐る。と言いながらラケットや一尺の物差しで血だらけになるまで殴られるんですよ。」
「父は母の事殺してやると叫びながら私の目の前でラケットで殴り続け、母の顔はお岩さんのようになっていた。」
とてもその虐待のおかげだとは思えません。。
と言いましたが。。
途中から不毛だ!と思った。。
で、アホらしくなってやめた。。
厚生労働省が虐待の定義として性虐待も含めているけど。。
ここは性虐待は含めないって事ね。。
さて。。アンチテーゼした私ですが。。
実は
受けた虐待すべて丸ごと丸ッとすべてが積み重なって今の自分であり、まだまだ年齢に打ち勝ってでも未来をもっと豊かにすると決意して生きております。
現在60歳。。あの虐待があったから今の私がある。。そう思うことはあってもそれをきちんと文章化して世に出すためにはまだする事があると思っています。
自叙伝を書きたいと強く願った私ですが、今は書くための修行と捉えて現状保留として日々研鑽しているのですが。。70歳頃に手掛けなおそうかとも思っています。
それは自叙伝を書いてどのような形であれ出すと言う事は親に泥を塗る行為であってはいけない。その為にだすのではない。まさに書きたいのが今の自分があるのはおかげである。。そのおかげを証明するために後10年は修行しようと決意しているのです。
そのような境地に若いうちからなるなんておこがましいにも程がある。
例え途中でも
人生語るのは少なくとも半世紀以上たってからでしょ?
そんな風に被害若者をミスリードするな!と言いたい。
ただただ、薄っぺらく捉えられたり、それを言うか?どこまで理解してるんだ?と言う時、「怒」になります。
潮目なのかもしれませんね。。
もう、被害者でいなくても良いのかもしれない。
どの道、何処の属性でも、自分に合う属性などないのだから。。
受けた被害という一面で親を見た時、怒りが湧く事を知っていますし長年噴出し続けた結果、
親を多面で見る事。。
結局そうする事が一番生きやすくなるのだと悟って生き抜く術を手に入れましたが、
被害の会は多面から再び被害の一面に意識を戻す事になるのかもしれません。
それが辛いということもないのだけれど。。
面倒くさくなってきた。。