※一部加筆修正して再アップします


わたしの両親はベトナムの南部の港町に生まれました。

カトリック教徒で、ベトナム戦争終結後の共産主義政権から逃れるために、
船で国外へ出たんです。
いわゆるベトナム難民。
ボートピープルです。





両親がベトナムを出たのはわたしが生後3か月の赤ん坊の時。

他にもたくさん、76人くらいが船に乗っていたそうです。

その3分の1は子ども。

フィリピン目指して太平洋に漕ぎ出し、4日後に日本の船に救済されました。
(ここまでもすっごい物語がありましたが、趣旨がずれるし、割愛・・・)

日本は当時難民の受け入れをしていなかったので、わたしたちはフィリピンの難民キャンプへ。

そして、1年8か月後、日本が難民条約に批准し、わたしたちは日本に移り住むことになりました。
日本の船が助けてくれたから。


栃木県にずっと住むことになりました。
栃木県のとあるカトリック教会がわたしたちの自立を支援してくれたからです。


なんで日本人じゃないんだ、なんでカタカナの名前なんだ、とずっと思っていました。
クラスメイトに馬鹿にされることもあったので、コンプレックスでした。

高校生の時、「ボートピープル」という言葉を図書館の「社会問題早わかり」的な本の中で見つけて、
頭が真っ白になりました。

わたしたちの家族は社会問題だったんだって。

社会問題は今まで自分とつながりのないものでした。

でもその時、真っ白な頭の中にビジョンが見えました。

ボートに乗ったわたしが、ぐるぐる回った海の渦に飲み込まれそうになっていました。


世界はわたしと見えない糸でつながっていた。
世界は海と同じだ。
みんなの意識が波を生んで、時に人を飲み込むんだ。
それが、社会問題だ。

わたしは知らなければならない・・・


そこで一念発起して大学に進むことにしました。

この感覚はわたしの原点です。
存在覚醒の瞬間だったような気がします。


大学時代まで、わたしはひたすら自分のアイデンティティの旅をしていました。

なんでこんな生い立ちなんだろうとか、
難民ってなんだろうとか、
社会問題ってなんだろうとか。


国際社会学を学んで、旅に出て。

自分がいたフィリピンの難民キャンプや生まれた場所を訪ねました。

わたしは何人(なにじん)だろう、何者だろうって。


一緒にボートに乗った76人の大半は日本にいたので、
その人たちに会いに行ってインタビューもしました。
(それが某雑誌の連載にもなっている…)

その中で、精神を病んでしまった難民の男性の何人かに出会ったんですね。


わたしは旅をする中で、大きな気づきを得ました。

「難民」とか「○○人」というのは、ただのカテゴリーだわ。
何の意味もないわ。と。


大事なものはもっと根っこの、もっとシンプルなものにあるわ。

なんであの人たちは心を病んだのか。

守るもの、がなかったからだ。

愛する人が、いなかったからだ。


わたしは難民だろうがなんだろうが、それがあったから幸せだったわ。

わたしは愛を学ばなきゃならない。


そこで、自分のアイデンティティの探求は終わりました。


わたしにとって愛は、「いつか家族や子どもを持つこと」と
「伝えること」だと思いました。


みんな役割があるんだ、と、大学時代に思いました。

例えば、世界をよくするために

傷ついた人を癒す担当
原因を追究する担当
素敵な世の中を作る担当
子どもに直接教育する担当・・・いろいろいて、

わたしは、
こんなひどい社会問題があるよと伝えて、多くの人に目を向けてもらう担当だ、と思いました。

世の中の深い深い真理を、自分自身が知ることを続けて、
それを人に伝える担当だ、と。

今一番影響力があるのはテレビだな、テレビのドキュメンタリー番組を作る人になろう、と思いました。


だからわたしは面白い生い立ちなんだ。
わたしだから伝えられることがあるはずだ・・・

そう思いました。


続きはまた~