「死体を臨床する現代美術 西尾康之」

 2月2日 土曜日 曇り

昨夜からの雨は上がった。

さて、精神科医、斎藤環からみた『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)から、西尾康之――「鏡像としての「死体」」を取り上げてみよう。

西尾康之は、陰刻鋳造という独自の方法で彫刻を制作する。石膏でかたどられた鋳型から鋳造する鋳型を直接造るという技法から生み出される、死体が生きているかのように表象された彫刻である。

http://yamamotogendai.org/japanese/artist/nishio.html

≪crash セイラ・マス≫ 2005年 西尾康之

以前、なにわの海の時空間の、海底トンネルをエレベーターで降りた処に展示されていたのを観たことがある。

ちょうど、エントランス側の陸地から、海底トンネルのある地下数十メートルにある処へエレベーターに乗って下りていくと、薄暗い照明のトンネルの中に西尾康之の作品が展示してあった。

薄いチャコレットグレーの色彩からできた石膏作品だということが判る。しかし、独特のオーラを持った陰刻作品である。確かに斎藤環が云うように、生命が事切れた屍のようなオブジェにもみえる。このとき観た作品は、船のオブジェであった。しかし、幽霊船のように、何か生気を欠いた作品だったようなイメージをおもいだす。

 この本では、GUNDAM展に出展された巨大彫刻、≪crash セイラ・マス≫について書かれている。もともと機動戦士ガンダムでは、萌え系であったセイラ・マスが「悪」のセイラ・マスとして四つんばいになり、右手の拳を振りかざしている人物像である。この作品は、森美術館の「六本木クロス」展で見たことがある。確かに異様な雰囲気の巨大オブジェであった。

 今一度、写真を通して見る≪crash セイラ・マス≫は、あたかも怒りに満ちた面持ちのセイラ・マスが何かに向って鉄拳を突きつけようとしている構図である。この怒りに満ちたセイラ・マスの先にあるものは一体何なのであろうか。それを、斎藤環は鏡像として「死体」に向けられたネガティブな造形ではないかと論じている。確かに生きとし生けるものは必ず死す。しかし、死する前に立ち上がれもしない状態でしか、拳を振り上げることしかできないオタクたちを表象しているようにもみえるのである。それがこの陰刻彫刻のもつ独特の世界観であり、作品を見る鑑賞者に与えるイメージかもしれない。そして、繰り返されていくオタクたちの再生産の鏡像として、死する世界へと暗示しているのかもしれないのである。