旧約聖書 | まひるの読書日記。

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How to read !? どうやって読むのコレ?

まひるの読書日記。-聖書


 聖書を読むのに、どこから出ているどの版で読むのがいいか、なんてわたしにはよくわかりませんから、著者名はもちろん、出版社とか出版年も、今回は、あえてタイトルに入れませんでした。


 いちおう、わたしが手元に持っている本(写真のもの)の情報だけ、念のために書いておきます。[中公ブックス 世界の名著13 『聖書』/責任編集 前田護郎/1978年/中央公論社] です。


 前田護郎さんは東大教授にして聖書に深い造詣を持つ方なのですが、腰の低いタッチで巻頭の解説を書かれていて、とても好感が持てます。

 こんなふうに書き出されています。


 「だれでも読める古典」としての聖書の責任編集者としてわたくしが選ばれたのは、宗教家ではなくて一介の学徒であり、常に若い人々の相手となる教師であり、みずからも若い日から聖書に親しんできたので、儀式的ではない平たい面で「読める」聖書が作られるよう、との趣意によるのだそうである。


 さて、解説では、前田さんがどのようにして聖書とかかわりを持つに至ったのかについて、そのきっかけのようなことなどから語り始められていて、それもとても興味深いのですが、この解説の中で、わたしが注目したいのは、わりと最初のほうにでてくる、次のような部分です。


 その文章には、「聖書はよみうるか」という章タイトルがつけられています。

 少し長くなりますが、引用します。


 聖書はそもそも読みうるか、という問題がある。(中略)

 このように、経典化に至る線は古くからはじまるけれども、旧約のおのおのの部分の成立はその経典化よりもさらに古い。内容的にも歴史、律法、詩、預言など多様性に富むものであり、おのおのの部分ははじめから経典としての権威を予想して書かれたのではない。おのおの成立の時代や地域や、著者の個人差による相違がみられ、ことばの矛盾も少なくないのはそのためである。異端や異教に対して正統信仰を保持するため、多くのほかの文書のの中から選ばれて編集されたものが現存の聖書である。人を束縛する経典至上主義は宗教体制の形式化とともにのちの時代に発生したものであり、聖書の文体そのものを流れる思想と直接は関係はない。したがって、虚心坦懐に聖書をひもとくものは、経典成立以前の聖書の思想そのものに触れることができるのである。


 長くてごめんなさい。(文字に色をつけたのはわたしです。)この文章、わたしにはとてもわかりやすかったので。

 前田さんは、「聖書は神聖犯すべからざる宗教的経典であって、そこに書かれたことはすべて信ずべきもの、という一種の通念」のようなものが、聖書を読みづらくしている、と言います。


 一字一句が神のことばであり、文字通り、ことば通りを、ただ信じればよい、という態度ではなく、もっとこう、いってみれば、ばらばらに言われたり、読まれたり、伝わったりするなかで生まれたひとつの書物を、そういう自然の生成物として素直に読んだほうが、解釈に苦しまないですむし、なんていうか、まとまっているかどうかはともかくとして、ひとつの世界として普通に読めるんじゃないか、みたいな感じなんだと思います。(伝わってますか?)


 前田さんは、同じ意味のことを繰り返し、解説の中で語っています。前田さんにとっても、重要な部分であるのだろうと思います。

 

 そう思って読むと、「創世記」も、なんか、少し違った景色が見えてきます。


 なにせ、こんなふうに始まります。(有名なので、ご存知と思いますが。)


 神が天地を創造した初めに――地は荒涼混沌として、闇が淵をおおい、暴風が水面を吹き荒れていた――「光あれ」と神が言った。すると光があった。神は光をみてよしとし、光と闇とを分けた。


 うう、これは、認知言語学(?)の世界、ですか? いや~、違いますね。

 なんといったらいいんでしょう。この世界。この調子が、ずっと続いていくんです。旧約は。もう、じっさい、めちゃおもしろい、ですよ。


 ああ、もうわかりにくいから、(わたし的に)わかりやすいところに、とんじゃいます。


 出エジプト記で、イスラエルの民が、エジプトの王パロに捕らえられて、苦役を強いられていて、脱出したいと思っているんですが、なかなか、それがかなわない。

 そこで、神の登場です。それからここで、あの十戒のモーセも出てきます。神が、モーセに命じるんです。お前が神の代わりになって、エジプトの王を説得するようにと。モーセは躊躇しますが、とうとう神の言い分を聞き入れて、王を説得しに行きます。でも、王はそう簡単にうんとはいいません。

 神は、モーセにこう言います。


 「よいか、わたしはおまえをパロに対して神とし、おまえの兄アロンをおまえの代言者とする。おまえがわたしの命ずるところをすべて語るならば、おまえの兄アロンがそれをパロに伝えて、この地からイスラエル人を去らせることになるだろう。ただし、このわたしがパロの心を冷酷にする。そして、エジプトの地で不思議を増し加えるが、パロはおまえたちの言うことを聞くまい。(後略)」


 なんと、神はモーセに、エジプト王パロを説得せよと命じていながら、相手の王パロの心を冷酷にして(ここの訳は、かたくな、とか、強情の意味でもいいそうです)、パロの首をたてに振らせないのも、やはり神だというのです。

 それでエジプトには、やはりその神によって、さまざまな災厄がふらされます。


 まず、エジプトのナイル川の水、そして、水という水が、すべて血に変わります(うへえ)。エジプト人、飲み水ありません。

 それから、カエルの襲撃です。お次はシラミ、さらにアブ、疫病、雹(ひょう)ときて、今度はイナゴです。

 これだけ続けても、まだ繰り返します。

 神が、エジプト王パロの心をかたくなにして、首をたてに振らせない結果です。災厄も、もちろん神の仕業です。(そう書いてありますよ、ちゃんと。)

 その後続いて、今度は暗闇の刑です。モーセが手を天にさし伸べると、エジプト全土が3日間、真っ暗闇になり、相手も見えず、立ち上がることさえできません。

 やっと最後、これがまたすごいんですが、神は、エジプト中の初子を、殺してしまわれるのです。


 モーセはイスラエルの長老たちに言います。

 「さあ、家族ごとに子羊を取り、過越しの犠牲をほふれ。そして鴨居と戸口の2本の柱に血を塗りつけよ。」と。

 神がそこを通るときに、鴨居と2本の柱の血を見てその戸口を過ぎ越され、イスラエルの民の子たちは、死ぬことがないだろう、しかし、エジプトの初子はみな、殺されるのです。その夜、エジプト中に、大叫喚がわき起こります。


 すごいでしょ。

 こうやって、やっとパロはイスラエルの民を解放します。それでやっと、モーセ率いるイスラエルの民は出エジプトを果たします。


 あの、海がふたつに割れる脱出シーンへと、つながっていくわけです。



 みなさん、これを、どう読みますか?