今日一日何をなししや長きながき手紙を書きぬ他は覚えず 津幡昭康
奥久慈の奥の奥なる夫の里傾り一面蕎麦の花の白 菊池和子
廃線の噂たちいる駅に来て待てばどんぐりわが背打つなり 大橋龍有
病院へ父を送りし車中にて話をしたり軍隊のこと 戸山二三男
布団から起き上がれない休日は石に変身したことにする おのめぐみ
軒下の了ひ忘れし風鈴の音を聞くなり真夜の目覚めに 浜元さざ波
理髪屋の若きに手話で「アリガトウ」云へば心に触れた気のする 原明男
何処までもどこまで行ってもインデアンサマー車に傷を付けて戻り来 上野昭男
言葉にも素振りもだめです秘密ですバレちゃだめです片思いです 松宮正子
三角のあをき貌ごとふりむける蟲の蒼き目息子思ほゆ 智月テレサ
炎熱の急に去りたる秋の夜半喪服来て立つふるさとの駅 滝澤美智子
缶ジュース飲みつつあおぐ目の先に昼の月有りうっすらと見ゆ 秋葉淳子
茄子胡瓜トマト隠元たかのつめ妻と植ゑたり嗚呼疲れたり 伊佐山啓助
フェルメールの女性はミルク注(つ)ぎ続き三百年のミルクの光 鈴木京子
生活の粉にまぶされ転がされこんがり焼けば俺も食えるか 高木啓
ゴミ袋持つ手に濡れた黒い鼻当てられ「いってらっしゃい」をされる 山田ゆき
さらさらとポプラ並木の鳴るそばの歯医者の予約を忘れる日々よ 左巻理奈子
すくすくと空は蒼さを増していま冬の支度をして落とす枝 塚田千束
胡麻荏胡麻粟黍蕎麦と江戸初期の里の畑はゆたかなりけむ 久下沼滿男
井戸の主のイモリもヘドロにまみれ出で人の為すままじつと洗はる 松下久恵
掃除機のコードを引きて居間に入る独りになれずふたりに倦みて 宇佐美玲子
スカートをぴんとさせるごと寝押しでもしてみたきかな緩ぶ心を 森暁香
幼子に空を見せむと下り立てば空が幼子見てゐるやうな 秋元夏子
雨あがり松の木下に淡紅のいつぽんしめぢ傘かしげをり 門間徹子
日傘とぢ木陰の階を登り来ぬ会ひたき人の待ちくるる家 鈴木尚美
衝突がやみてスコール浴びぬ腕時計の針が失せてをりたり 大葉清隆
乗客のわれ一人となりし夜のバスどこか遠くへ拉致されるごとし 福井詳子
車椅子に座り押されて動くとき身体の芯から力抜けたり 井上成子
前の夜の残りご飯を粥にして氷一片入れたる朝餉 住谷節子
霧吹きの霧を吹きかけ猶増すや秋草のもつ花のさびしさ 知久正子
残り毛糸のそれぞれの色に魅せられて炬燵カバーが編みたくなりぬ 重本圭子
白髪の仙人に似て小澤征爾座して指もて音を操る 奥野耕平
旧姓を呼ばれし人に旧姓聞く夕やけとんぼ肩にとまらせて 大山祐子
キャッキャッと子らの声する畑中にバーベキューしてるそば打ちしてる 大賀静子
歌会終え詠草集を読み返す車窓は冷えて闇に濡れおり 矢澤保
とりあえずビールの後はコバヤシの悪口で間をひとまず埋める 伊藤いずみ
ベランダの薔薇は驚くことでしょう春に目覚めてわたししかいない 荒川梢
九年経ていまだわたしの表情を見わけぬ夫へ感情報告 浅井美也子
ドライヤーの一番強い風量で飛んでけ今日を終えし体よ 小原和
このたかが性欲のために死にし人あまたあることを思いて射精す 加藤陽平
火の猫はこたつに眠る火の猫は消えたくなったりしないんだべか 北山あさひ
一枚ずつはらりはらりと落ちてゆく山茶花のごと人と別れて 木部海帆
がしゃがしゃと脚震わせて湯を泳ぐ蛙のおもちゃ性愛のごとし 小島一記
悲しみのない風の音聞いてみたい 次はなずなに生まれてきたい 小瀬川喜井
独白と思えば電話をしておりぬバス停前のベンチにひとり 後藤由紀恵
木曜の昼のひかりにプールの水にこどもらの声に耳をあらえり 佐藤華保理
疑つて決めつけて終へた恋だつた 大きプードル靴はいてゐる 染野太朗
雨が止むころにあなたを土に埋め終わりてツバメついと飛び去る 立花開
ヒゲのなきガラスの猫に沁むひかり夜すがら瑕を浄めんとする 田村ふみ乃
豆を煮る 毛糸のような夕暮れがおんなの首に巻き付く秋を 富田睦子
父からの電話静かに鳴り響き一緒に過ごすと決めたる晦日 広沢流
行き先の定かと思える人々がまっすぐ向かって来る交差点 宮田知子
その昼はパンと饂飩を食べながら腹八分目あたりで泣いた 山川藍
横たはる生春巻きの食感の寸刻のうち晩夏は滅ぶ 加藤孝男
今ここにいない人ばかり親しくてこの世の椅子に無花果を食む 市川正子
大鍋に根白の大根湯気たててひとりのたつき冬へとま向かふ 島田裕子
大股に水溜りまたぐ青年の広き肩巾にもくせい匂う 滝田倫子
犬吠ゆるを久しく聞かず秋の夜の静けさに両の耳澄ましみる 寺田陽子
朝明けのそらに群れたつ白鳥を想へり飯の炊きあがりつつ 小野昌子
ががいもの絮(わた)の旅立ち飛ぶ種も飛ばない種も世界のいちぶ 麻生由美
白菊に水の上るをたしかめていとしき者への供花となせる 齋川陽子
万聖節を初めて味わう二人なれ南瓜の底にローソク灯す 齊藤貴美子
チャンネルを変うれば豪華な犬用のお節料理が映りておりぬ 松浦美智子
血餅のごとき実をつけハナミズキの枝の揺れたるに秋風通る 高橋啓介
無心にて腹かかへゐる嬉しさよトムとジェリーとビールの泡と 升田隆雄
壮年を過ぎゆく者の影長し暗渠をくだる水の音する 久我久美子
足裏の砂を引きゆく潮の渦崩れむとする身を立てなほす 庄野史子
競り終り市場の隅にうづたかく積まるる発泡スチロール箱 西川直子
一匹の犬に吠えられつぎつぎと吠えらるるなか会報配る 中道善幸
桜葉のその先だけにこころもちくれなゐもゆる寂光院に 柴田仁美
今誰かわれを思いし人あらんふいに手鏡のぞいてみるも 岡本弘子
家計簿の食費の欄に猫の餌も妻は一緒に書き込みており 岡部克彦
寝に落つる間際かすかなる気配して猫の匂いが枕辺にあり 吾孫子隆
十一月の過ぎゆき早くあと三月(みつき)超ゆべき冬へ覚悟のうごく 橋本喜典
てのひらを重ねるごとく朴の葉に味噌を挟みて焼く者となる 篠 弘
十年はしゅゆの間なりきこの調子これから十年生きられそうな 小林峯夫
咲き残る秋明菊のほの白く揺りて日暮を見えぬもの行く 大下一真
誰もかれも正しいことを言ひつのり冬ひんやりと脛にまつはる 島田修三
うら若きゲリラのをみなの携ふるカラシニコフに秋風ぞ吹く 柳宣弘
うら若き女性兵士の訓練をテレビに見入りやがて苛立つ 横山三樹
足の裏二十三・五センチのわれの背のびは七センチほど 井野佐登
目薬の甘さが違ふ越中の薬屋の出すものはことさら 中根誠
年齢に合ふ打法へと変へゆきし決断を言へり中日の和田 柴田典昭
日の暮れをポピー畑に雲雀あがり並び仰ぎぬまだ家族あり 今井恵子
身を絞り身を捩りつつ小さきへび秋明菊の根方に入りぬ 曽我玲子
孫五人曾孫三人になりましたあなたの知らないひまごかわいい 北村千代子
秀の高さ保ちて突風に耐へつづく噴水をみてひとり合点す 大林明彦
はみ出さむばかりの炎に春を呼ぶすすきが原の野火の絵手紙 井上勝朗
少しだけ呑みし梅酒にふわふわと手をつきながら階段上る 齊藤愛子
肩先に疼き覚ゆるこの夕べ萱草いろのストールかくる 前田紀子
【新春74歌人大競詠】
橋本喜典 「われいまいづこ」
篠弘 「花のタイル」
島田修三 「未明の水」
大下一真 「山中歳晩」
立花開 「すずらん」
【カラーグラビア 31文字の扉】 大下一真
【連載】
歌のある生活 島田修三
【特集 歌のあそびごころ】
冬のながめ 篠弘
【新連載】
短歌渉猟 和文脈を追いかけて 今井恵子
【特集2 現代百人一首】
斎藤博
観光客駅に出迎えナマハゲの咆哮するは喜びの声
島田裕子
時雨ふる旦過市場の人なかに鯨のベーコン縁(ふち)赤きを選る
【短歌時評】
「方代」は「カタヨ」ではない、が 田口綾子
【作品季評】 柳宣宏