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四万十川の源流点まで登ってきました。


滔々と流れる196キロもの大河・四万十川。


梼原町からの帰り道、「源流点」という看板に引き寄せられ、もう次のチャンスはないと思って、ナビから外れて山道を走り上がりました。


雄大な川も、ここが原点、スタートの場所なんだ。


素晴らしい経験となりました。


その前に、高知佛立寺さまから「維新の門」のある梼原町まで走り切り、梼原町立歴史民俗資料館まで行き、ご挨拶しながら展示を拝見いたしました。


「志国(しこく)」の気概を感じる、美しく、工夫の凝らされた展示でした。


また、「維新の門(群像)」には梼原町にゆかりのある6人の志士と、脱藩後にこの町を通り、那須家に宿泊した坂本龍馬、沢村惣之丞の2人を合わせた8人の銅像が建立されています。


龍馬は文久2年(1862)3月24日に高知を出奔し、翌日の25日に梼原に到着しました。


そして、那須俊平、信吾親子の家に宿泊。彼らの道案内で土佐を脱藩したと言われます。


那須俊平は信吾の父。信吾は吉田東洋を斬った一人。


信吾は東洋暗殺後に脱藩し、吉村虎太郎と共に天誅組を組織して挙兵し、闘死しました。享年34才。


吉村虎太郎は信吾が逝った3日後に戦死。享年26才。


辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。


「土佐一の槍の達人」と言われた信吾の父・俊平は、敢えなく散った信吾の後を追って長州の忠勇隊に入り、58才で禁門の変(蛤御門の変)に参加。奮戦の末戦死したのでした。


那須俊平の彫像を見ているだけで、やはり涙がこぼれます。


明治維新は称賛や美化の対象ではなく研究の対象だと思っています。


また、攘夷か開国か、勤王か佐幕かの二元論的思考の無意味さも痛感しています。


しかし、幕末の様々な群像の中に、まだ若い憂国の志士たちの、生き様と死に様、父や母、愛する人と別れてまで果たそうとした志を想うと、胸が焦げます。


ここに建つ彫像の主、掛橋和泉 享年27才、前田繁馬 享年28才、中平龍之助 享年22才。


決して美化してはいけない。しかし、ただ研究して悦に入っるだけでいいはずがない。


彼らに並ぶほどの、狂気的情熱を、自分は持っているだろうか。


考えながら、帰り道を走っていて、四万十川の源流の看板を見つけました。


7キロ。


源流の碑が建っているところに車を停めて、道なき道を革靴で歩いて25分。


残雪や氷柱を見ながら山道を踏み分け、小さな泉にたどり着きました。


ここが四万十川の源流点。


大きな大きな四万十川の流れも、こんなにも小さな泉から始まるのか。


だーれもいない。だーれともすれ違わない山奥。


その源流点に立って、無始已来、言上、御題目をお唱えさせていただきました。


南無妙法蓮華経ー。


駆け足でしたが、高知佛立寺さまにお参りさせていただき、結局4つのミュージアム・資料館を廻り、それぞれにご挨拶をして、四万十川の源流点にも行くことができて、横浜に戻ってきました。


ありがとうございます。


今夜、京都の大切な方が意識不明になられたと連絡があり、外から戻ってそのままご宝前にあがり母とお看経させていただいていました。


どうか、現証の御利益をお見せくださいますようにー。


南無妙法蓮華経ー。