[不空訳]諸法無願 與無願性相應故

諸法は無願なり、無願の性と相応するが故に。

 

[栂尾・泉] 3)apraṇihitāḥ sarvadharmā apraṇidhānayogena, 

[苫米地] 3)apraihitā sarvadharmā apraidhāna-yogena /

存在すべては、無願(何ら願いの対象とならざるもの)である。何ら願いの対象とならざることによって(= 無願であることと相応しているから)。

 

[菩薩は]存在すべては、無願である(すなわち、何ら願いの対象とならざるものである)[と知る]。なぜなら、無願であること(、すなわち[般若波羅蜜多は、その認識対象が]何ら願いの対象とならざることと結びついて働いている、すなわち、何ら願いの対象とならざることを認識していること)によって。

 

「無願」について、アーダンダガルバは次のように説明しています。願にはさまざまがあります。

 

願とは、願うこと(gsol ba ‘debs pa. to make a request)であって、欲求のままに(’dod pa’i dbang phyug tu)行動することである等(とあり)、実事(dngos po. vastu, bhāva)に執著する(mngon par zhen pa. abhiniveśa)ので、願(というの)である。(中略)願とは、諸々の願(smon lam. praṇidhāna)であって、実事を執ることに著することで(dngos por ‘dzin pa la mngon par zhen pa)、(たとえば、)欲界の自在者たること等を願うことである。

 

「無願」と「無相」の関係については以下の通りです。

 

無願(願いの対象とならざるものであること)とは無相(特徴なきものこと)であるからである。そのように、実事に執著しないのである。

 

すなわち、無相なるが故に、無願ということです。「空であることも無相である(遮情門)」(表徳門的には「空(= 虚空のように無尽蔵)であることは(一切相を本具して万徳荘厳なる)無相である」)を加え、そして次の、諸法光明(「勝義として、あらゆる分別を離れていること」dom dam par rnam par rtog pa thams cad dang bral ba)は、また空であることの言い換えですとすれば、この四句は転字輪となります。なお、無願(何ら願いの対象とならざるものであること)を表徳門的に表現すれば、これ以上願うべき対象は何ひとつとしてもない、となります。そして「諸法光明」は「法に自在を得る(無礙自在)」(『理趣釈』後出)こととなります。それが「童身」(文殊菩薩さまのお姿)の意味であるといいます。霊城先生『講録』pp.173~175を参照。

 

[不空訳]諸法光明 般若波羅蜜多清浄故

諸法は光明なり、般若波羅蜜多、清浄なるが故に。

 

[栂尾・泉] 4)prakṛtiprabhasvarāḥ sarvadharmāḥ prajñāpāramitā-pariśuddhatayeti [1~4 Prasannapadā p.444]

[苫米地] 4)praktiprabhāsvarā sarvadharmā prajñāpāramitā-pariśuddhyā //

存在すべては、本性として浄く輝けるものである。なぜなら、般若波羅蜜多の清浄さ(すなわち、般若波羅蜜多が完全に清浄なること)によってである。

 

本性光明 prakṛtprabhāsvara : この語は「光り輝く」という意味をもって、心の清浄さを意味する語として、使用されはじめたのであろうと考えています。大原光揮「『八千頌般若経』における「清浄」の概念の一考察」2008/12/10、および tac cittam acittam / prakṛtiś cittasya prabhasvarā // Vaidya, 1960.3 を参照。

 

『理趣釈』における本性光明の用例として以下のものがあります。

 

「一切有情の身中の如来蔵性の自性清浄光明(は)、一切の惑染の染すること能わざる所なり(= 本性清浄なり)」(一切有情身中如來藏性自性清淨光明一切惑染所不能染)二根交会 二体和合 『理趣釈』2025-11-06

 

『理趣釈』はこの四句をもって、マンダラ、その内院を構成します。(「四方には四仏を安置せよ。(中略)その四隅には、四種の般若波羅蜜の印(= 明妃)を置く。)」

 

諸法空無自性相應とは、これ金剛界曼荼羅の中の金剛利(vajratīkṣṇa. 文殊師利)菩薩の三摩地なり。諸法無相與無相性相應故とは、これ降三世曼荼羅の中の忿怒金剛利菩薩の三摩地なり。諸法無願與無願[性]相應故とは、これ遍調伏曼荼羅の中の蓮華利薩の三摩地なり。諸法光明般若波羅蜜多清浄故とは、[これ]一切義成就曼荼羅の中の宝利菩薩の三摩地なり。」

 

これは、アーダンダガルバがこの四句を五部(四部)等に配当する仕方と同じ、マンダラ(真言)的発想です。

 

心真言

[不空訳]時文殊師利童眞 欲重顯明此義故 凞怡微笑 以自劔揮斫一切如来 以[『理趣釈』已]説此般若波羅蜜多最勝心 菴

ときに文殊師利童眞[は]、かさねてこの義を顕明せんと欲うが故に、凞怡微笑して、自らの剣を以て一切如来[の臂]を揮斫し已りて、此の般若波羅蜜多の最勝の心を説きたまう。aṃ

 

[栂尾・泉] aṃ

[苫米地] 欠文(  )

[tib.(和訳)]ときに、尊きお方にして、文殊師利童真(’Jam dpal gzhon nur gyur pa)は、まさにこの意味をより詳しく説示して、微笑みながら、自ら[手にする]、この利剣(ral gri)をもって、あらゆる如来[の臂]を断ち切きながら(… la hdebs shing)、[転字輪という]般若波羅蜜多の最勝の心真言をお説きになられた。aṃ(a)

 

以自劔揮斫:『三巻本』「以金剛劍揮斫」[H] §100: tena vajra-kośena sarvatathāgatān praharann …

 

第七段の心真言について、aṃ とするものと、a(vajra a)とするものとがあります。不空三蔵は aṃ は、四種の覚悟(abhisaṃbodhi)を摂する、成就する(= 完成させる、達成させる)義とします。

 

『理趣釈』「一切の有情は無始より輪廻し、四種の識(アラヤ識、マナ識、第六意識、前五識)と与んじて、無量の虚妄煩悩を積集するを、すなわち凡夫と爲す。凡夫の位に在るを名づけてと爲す。聖流に預かる(= 預流

果。見道、初地)より如来地に至るを名づけてと爲す。四種の菩提を以て、四種の妄識を対治す。妄識、既に除かるれば、則ち法智を成熟す。もし法を妄執すれば(若妄執法)、則ち法執の病を成ず。是の故に智増の菩薩は、四種の文殊師利の般若波羅蜜の剣を用て、四種の成仏智の能取・所取との障礙を断つ(「輪に遇うに随って摧破せずということなし」『大日経疏』巻第十二)。是の故に、文殊師利、四仏の臂を揮斫するを現す。(中略)aṃ 字は覚悟(abhisaṃbodhi)の義なり。覚悟に四種あり。いわゆる声聞の覚悟と縁覚の覚悟と菩薩の覚悟と如来の覚悟となり。覚悟の名句、同なりと雖も、浅深異なりあり。自利利他の資糧、小大不同なり。四種の覚悟を以て、総じて一切の世間、出世間、出世間上上とを摂す。是の故に、文殊師利菩薩、法に自在を得るが故に、法王の子と曰う。」